■ 向臺音吉宛書簡、明治38年元日。■ 『内畠暁園作品集』注⑷、14−15頁。■ あきしく「京都新古美術品展展覧會(四)繪畫の部(承前)」『大阪毎日新聞』明治33年4月22■ 黒田天外「竹内栖鳳氏の談(下)」『日出新聞』明治41年11月15日。栖鳳の趣味については平野― 275 ―■ 本會員「批評に對して」『黎明』第2号、明治39年2月。■ 「會員製作談 内畠暁園『妾の罪』」『黎明』第2号(同前)。■ 「誰家巧為斷腸聲」の作品解説に「その圖樣の大なるに至りては展覧會場中の第一を占めたるものなり、而して畫題が杜甫の詩にもとづけること説明するまでもなかるべし」(「作品解説」『研精畫誌』第18號、明治37年7月)とあり、「妾の罪」の批評に「内畠暁園氏の『妾が罪』は説明を附しあり、侠妓李娃戸外の鄭郎の聲を聞く圖、花顔柳容の態は備さに之を現したるも、其の痛切なる情を痛切に觀取する能はざるを憾みとす」(「水曜畫會展覧會」『日出新聞』明治38年11月23日)とある。■ 『日本美術院百年史』二巻上〔図版編〕、815頁。■ 田澤田軒「大觀畫伯の畫業の一片鱗を見る」『日本美術』第2巻第7号、昭和18年7月。■ 明治40年の第5回水曜会展覧会に暁園は出品していないが(『黎明』第5号、明治40年11月)、同展に出品された西山翠嶂の「廣寒宮」と西村五雲の「白熊」(「咆哮」)は、同年の第1回文展に出品して三等賞を得ている。■ 掬汀生「『日本繪の將來』といふに就きて」『新聲』第9編4号、明治36年4月。附記 本稿をなすにあたり、本興寺・満田捨身氏、西福寺・満田尊麿氏、黒瀬町教育五回内国勧業博覧会 美術館出品目録』、『日出新聞』および『日本美術院百年史』、『近代美術関係新聞記事資料集成』などの調査による。⑾「易水」の屏風裏面には水墨の芭蕉が描かれ、「暁園画之 白文方印(耕穫) 朱文方印(暁園)」の款記がある。なお、裏面の款記の下に「呉市市役所備品(広公会堂用)、種別 雑器具類、品名 屏風、受入月日 昭和19年6月30日、現品番号 第1號、主管 広出張所」という紙ラベルが貼られており、かつて呉市の広公会堂の備品であったことが窺われる。⑿桂華「新古美術品展覧會 新製品 絵畫の部(八)」『日出新聞』明治37年4月27日。⒀徳美大容堂「栖鳳畫伯の言葉から(十)―土田麥僊、石崎光瑤其他―」『美の国』第11巻第12号、昭和10年12月。⒁金子静枝「第五回内博ノ美術品」『京都美術協会雑誌』第133號、明治36年7月。⒂第五回内国勧業博覧会事務局『美術館出品図録』明治36年3月、170頁。⒃はくてう〔正宗白鳥〕「研精會展覧會所感」『讀賣新聞』明治37年5月10日(『日本美術院百年史』三巻上〔図版編〕、559頁)。⒄桂華「水曜畫會評」『日出新聞』明治37年11月25日。⒅村上文芽「繪畫振興史 水曜會」『日出新聞』大正8年9月18日(島田康寛『京都の日本画近代の揺籃』京都新聞社、1991年7月、300−301頁)。⒆『黎明』第1号(明治38年11月)および第2号(明治39年2月)。⒇土田麥僊「藍原五三郎宛書簡」明治37年6月5日(計良勝範・上田文『土田麥僊 藍原五三郎宛書翰』鳰村研究会、2003年11月、15頁および45頁)。日(『近代美術関係新聞記事資料集成』第10巻、ゆまに書房、1991年)。重光『栖鳳芸談「日出新聞」切抜帳』(京都新聞社、1994年11月)347頁。
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