鹿島美術研究 年報第27号別冊(2010)
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1.描写段階における特性シュレンマーの初期絵画は、大きく二段階に分けることが可能である。すなわち対象を描写する中での形態の簡略化、もしくは捨象という方法が第一段階である。第二段階は絵画の平面性を意識的に扱い、対象をそのまま写し取るのではなく、画面上であるべき形へと変化させて行く構成の段階である。まずは第一段階について辿る。― 281 ―ュレンマー個人の特性ではなく、シュレンマーの友人たち、すなわち同じアカデミーで学んだ画家たちに共通して見受けられる特性でもある。シュレンマーらが学んだこのシュトゥットガルト美術アカデミーは、ドイツ国内だけを考えてみても、他地域のそれとは一風変わった様相を呈していた。アカデミーと言えば、まずは古典的な絵画技法が訓練される場であるのだが、この地のアカデミーには、先進的な教師がいた。アードルフ・ヘルツェル(Adolf Hoelzel: 1853−1934)である。ヘルツェルは1906年にシュトゥットガルトアカデミーで教鞭を執り始め、その後1916年には同アカデミーの校長となった。アカデミーに招聘された時にはすでに50歳を過ぎていたにもかかわらず、その教育内容は、色彩理論から造形要素の分析、画面構成といった「20世紀的」なものであったと言える。そのため、このヘルツェルの周りには熱心な学生が集まり、その中には後にバウハウスにおける造形教育の基礎を築いたヨハネス・イッテン(Johannes Itten: 1888−1967)もいたのである。そしてイッテンの造形理論には、ヘルツェルの直接的な影響が少なくない。このことは、バウハウスに流入した一つの造形観について、再検討する必要性を示すことにもなるだろう。すなわち、シュトゥットガルト美術アカデミーを検討すること自体が、バウハウス研究の一部ともなり得るのである。以上の目的から、筆者は昨年7月から8月にかけての1ヶ月間、ドイツ及びスイス北部の美術館、資料館13箇所において、シュレンマーやヘルツェル、同門下の学生、友人の1000点を越える実作品や日記、書簡等を撮影・調査した。現地での十分な協力により、そのほとんどの資料について、撮影許可を得たことは幸いであったが、その分量は、帰国後の半年間において検討可能な予定数を遥かに越えた。それによって、シュレンマーやイッテン以外のこれまであまり知られていないアカデミー学生を、単にシュレンマーの比較項としてではなく、更に踏み込んで個別に研究する必要性も見出され、本研究調査は、その出発点以上に多くの検討材料を残した。本稿では、まずは当初の計画通り、シュレンマーの作品検討として本調査を報告しなければならないが、それ自体の範囲も広いため、全体の研究構成を一通り辿って行くこととしたい。

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