鹿島美術研究 年報第27号別冊(2010)
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3 北斉北斉は550年から577年までだが、ここでは577年から581年の北周占領期を含めて考― 293 ―り、特にこの点は北魏後期以来のX字状天衣を纏う像に顕著である(注7)。このように東魏では北魏後期様式を基本としつつ、次の北斉に繋がる新しい変化が現れている。このうち肉体表現への志向性をもつ新しい形式の菩■像は山東だけに現れたものではなく、同時代の麦積山石窟44号窟、上海博物館蔵比丘釈慧影三尊像(梁中大同元(546)年銘)でも見られる。従ってこの変化も中国全体での大きな変化が山東に及んだと考えるべきであろう(注8)。える。この間574〜578年まで北周武帝により廃仏がおこなわれている。まず如来像についてだが、東魏までの造像に比べて大きな変化が現れている。〔図2−1〜4〕は龍興寺出土の立像だが、着衣型式にはそれまでの中国式の他に偏袒右肩・通肩といった、北魏後期にはほとんど見られなかった型式が現れている。またいずれも着衣が薄く身体に密着しており、東魏までは表現されなかった身体の起伏が見て取れる。さらに頭部も肉髻が低くなる、輪郭が楕円形となる、眼は波打って伏せるようになる、といった東魏からの大きな変化が認められる。この他、着衣の彫刻の省略もさらに進んでおり、中には〔図2−4〕のように着衣襞などを全く彫らず、絵画で表現するような作例も見られる。〔図2−5〜8〕は龍興寺及び諸城県体育場遺跡出土の如来坐像、倚坐像だが、像容の特徴は立像と同じである。全体として頭部、胴部、脚部を積み上げたようなブロック性が感じられるが、身体が■平なためその印象は強くはない。菩■像は東魏にその端緒がみられた装飾化と肉体表現への志向がさらに推し進められている。〔図2−9〜11〕は龍興寺窖蔵出土の一光三尊像である。両脇侍菩■は胸の張りや、胴部の括れ、腰の張り、大■部の隆起などが見られ、肉体表現への志向性が確認でき、同時に宝冠などの装飾が華美になっており、装飾化の進展が見られる。ただし左脇侍菩■は大型の瓔珞などを纏っており装飾への志向が強いが、右脇侍菩■は瓔珞を細くしておりより肉体表現への志向が強く、2種の形式の存在が認められる。以上見てきたように、北斉になると造像には多様で大きな変化が現れるが、それをもたらしたのは、人間の持つ肉体を表現しようとする志向が強くなることだと考えられる。頭部では肉髻が低く目立たなくなり、眼の表現が自然になり、顔にはふくらみが現れ、体部では薄い着衣を通して肉体の起伏が感じられるようになっている。如来像では着衣の襞が省略されてゆき、中には彫刻ではなく絵画で表現したと考えられる

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