4 隋隋の年代は581年から618年までで、この時代を代表するのは青州市駝山石窟と雲門― 294 ―造像もあるが、これも肉体表現を優先するために、邪魔な襞の彫刻をなくしていった結果と考えれば理解しやすいであろう。ただしそれぞれの表現が未熟なため、頭部・胴部・脚部といった各部位が統一されず、全体としてブロック的な印象を見るものに与えるようになってしまっている。しかしこのような肉体表現への志向は北斉の都であった■付近の造像をはじめ、中国全体で見られる新しい動きでもある。従ってこのような造像が見られることは、山東においてもこの新しい造像様式が受け入れられた結果と考えることができる。ただし山東の造像で見られた彫刻の省略化が進み絵画で着衣を表現することは他地域では稀であり、また菩薩の装飾化も山東は他地域よりも進んでいる。以上の点は山東造像に特徴的な表現と言えるだろう。山石窟である。駝山石窟第3窟の如来像〔図3−1〕は頭部の輪郭は丸く、肉髻が低いため両者が一体化し、眼は波状でやや伏せている。着衣は中国式で、彫刻は全体に浅く、襞は彫刻されない。以上の特徴は北斉と共通するが、胴部は立体性を強めて円筒状になり、太く丸い首、■平な脚部と相まってブロック化が顕著になっている。これと像容を異にするのが雲門山石窟第1龕如来像〔図3−2〕である。この像は現在頭部を欠損しており、1920年代に撮影された写真を参考によると、頭部は楕円形で、明確な肉髻が確認できる。頸部は高く太い。脚部の膝は両端を上げており、全体を平行で弓状の襞を彫った着衣が覆っており、足首は見られない。着衣は中国式で、肩部に吊し紐をかけ、襞を凸線で表現し、体部から脚部にかけてゆったりとかかる。体部はやや後ろに傾いているが、胸には張りがある。全体に立体性が感じられるが、その反面、ゆったりとした姿勢や着衣から、ブロック性は駝山石窟第3窟ほどには感じられない。この第1龕と類似する如来像は龍興寺からも出土している〔図3−3〕。また済南市神通寺四面塔造像にも同様の傾向が見て取れる〔図3−4〕。駝山第3窟は隋開皇初年ごろの開鑿が推定されている(注9)。雲門山第1龕は背後の小龕の紀年が開皇10年(590年)以降であることから、開鑿はそれ以前と推定されるが、その差はほとんど無いと考えられる。従って駝山第3窟と雲門山第1龕如来像の違いは、年代差として捉えることができる。隋代を代表する菩■像としては、まず上述した駝山第3窟の脇侍菩■像〔図3−5〕
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