鹿島美術研究 年報第27号別冊(2010)
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― 296 ―などがあり、ほぼ640年代から50年代の様相を示している。如来像では頭部は楕円形であるが頬に肉が付き、やや角張るようになる。肉髻は幅広で明確になる。体部も肉付きが良くなっているが、それは直接的には表現されるのではなく、ゆったりとした着衣を通して感じられるものになっている。脚部は全体を着衣が覆っており、足は露出させない。着衣の衣紋は高くなっている両端の膝の間を弓状かつ平行に表現されている。全体にゆったりとした着衣を通して肉体の存在は十分に感じられる。岡田健氏は初唐時期の造像様式の検討の中で、龍門石窟に代表される洛陽の造像と都である長安の造像の検討を行っている。このなかで足全体を覆うような着衣法が龍門に代表される洛陽や山西などで見られ、長安とは異なっていることを指摘している。この岡田氏の見解に従えば、千仏崖の諸造像も、このような華北東部で流行した造像形式の流れを汲むものと考えることができる(注11)。なお残念ながら菩■像に関しては良好な資料が見られないため、ここでは取り扱わない。おわりに以上が山東における南北朝時代から初唐にかけての造像の変遷である。北魏後期には中国式の着衣に代表される厚い着衣を纏って肉体表現を抑制した造像様式が定着し、次の東魏まで続く。しかし東魏では新たに肉体表現の志向を持った造像が姿を現しており、次の北斉造像へと繋がってゆく。北斉では肉体表現への志向性が一気に強くなり、頭部も表現が変わり、体部では肉体の持つ起伏も大胆に表現されるようになる。この肉体表現への志向性は隋・初唐へと継承されてゆくが、徐々に落ち着きを見せ、着衣と調和が取れた表現へと変化してゆくのである。以上のような変化は、基本的には中国、特に華北東部で起こった造像の変遷と歩調を合わせている。文中でも述べてきたように、どの時代においても山東のみが孤立した状況にはなく、隣接する河南・河北と関連が見られるのである。ただし山東と河南・河北の造像が全く同じかというと、そうではない。例えば北魏後期から東魏にかけての顔の表現には山東の独自性が高い。また北斉で着衣襞などを彫刻ではなく、絵画で表すことも山東以外では稀である。さらに北斉から隋にかけての菩■像の装飾の豊かさも、河南・河北にはない山東の特徴と言えるだろう。このように見てゆくと、今回対象とした時代において大きな様式の変化は省単位のような地域ではなく、華北東部といったようなより広い領域で起こっており、そのな

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