― 306 ―ベルナール2点への代金1200フランが妥当かどうかは判断に苦しむが、ここでは参考のために、ダニエル・ド・モンフレがギュスターヴ・ファイエに宛てた1903年の書簡の一節に引用する。ゴーガンの先駆的なコレクターであった両者にとって作品の価格は大きな関心事であり、折に触れて話題にすることがあったようである。タヒチ時代と比べるとブルターニュ時代の評価はまだまだ低く、単純に比較することはできない。しかしながら、そのことを割り引いたとしても、ポン=タヴェンに密かに飾られていたゴーガンの板絵に他者に先駆けて注目し、自らのコレクションに取り込むことに成功したドニの犀利な洞察力と旺盛な行動力が改めて浮き彫りになるだろう。《野蛮な物語》がドニのコレクションに入った経緯は不明であるが、《黄色いキリストのある自画像》については概要が判明している。1964年にカタログ・レゾネが刊行された頃には、ポン=タヴェンで完成した直後にグロアネク夫人の所有となり、1903年にドニが現地で購入したと考えられていた。しかし、近年になってモンフレからヴォラールに宛てた書簡が発見され、以上の情報は訂正されている。本作は1889年から1890年にかけてパリで制作された後はモンフレの手元に置かれており、1902年にヴォラールに200フランで売却され、1903年にドニのコレクションに収められたことが確認されている(注11)。ドニはナビ派の画家の中でもっとも早くヴォラールと接触を持ち、すでに1893年には自作を売却していた(注12)。一方のゴーガンは意外なことに、ドニから2年遅れた1895年にヴォラールとの取引を開始した(注13)。それゆえ19世紀末には、おそらくドニはヴォラールを通してゴーガン作品に接する機会はあったと推測される。しかしながら、実際の購入は奇しくもゴーガンが亡くなった1903年のことであった。ゴーガンの訃報がフランスにもたらされたのは9月であり、その前後のどちらであったかまでは特定できないが、少なくともこうした事態がそう遠くはないことをドニは予見していたであろう。そしてまた、ヴォラール画廊が扱っていた多くの作品の中から自画像を選択したという事実は、コレクターとしてのドニの蒐集方針に大きな示唆をもたらしてくれている。 「《こんにちはゴーガンさん》の油彩に1900フランを提示してくる者がいました。私は応じませんでしたが、あなたもおっしゃるようにこの値段は十分高いと思うのです。もしブルジョワたちがゴーガンの作品を買い始めたら、際限がなくなるのは間違いありません。」(注10)
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