3.蒐集作品の活用自画像の購入を促したひとつの契機として、アルマン・セガンが1903年3月から5月にかけて『オクシダン』誌に発表した論文「ポール・ゴーガン」を挙げることができる。これはゴーガンの生前に発表されたもっともまとまった論考のひとつで、最終回となる5月号では、一頁を割いて《黄色いキリストのある自画像》の図版が掲載された(注14)。考えてみれば、まだゴーガンの作品を見る機会がほとんどなかった頃である。少し後になるが、1906年のサロン・ドートンヌで大規模なゴーガンの回顧展が開催されたときのルイ・ヴォークセルの美術批評には、「ところでなぜ今になってポール・ゴーガンの回顧点が開催されるのだろうか。何よりも彼のことを大衆が知らないからである」と、わざわざ注釈を加えるくだりがあった(注15)。一部の芸術家や批評家を除けばゴーガンが無名であった時代に、『オクシダン』誌に掲載された自画像の図版は、芸術家の風貌と画風を人々に伝える大きな役割を果たしたはずである。― 307 ―1909年にドニが『オクシダン』誌に発表した論考「ゴーガンとファン・ゴッホから古典主義へ」では、自らが蒐集したゴッホとゴーガンの自画像に言及した箇所が見出せる。そこでは「私の前にゴッホの美しい自画像がある」とさり気なく自身のコレクションであることを示唆した後で、次のように述べていた。 「私がこれと比較するのは考えがあってのことなのだが、ゴーガンの《(黄色いキリストのある)自画像》はそれほど上品なものではない。しかし、それにも増してこれは教訓をもたらしてくれる上に、セザンヌの技法から強い影響を受けてい図版が掲載されたのが記事の初回ではなく最終回であったのは、連載が始まった後に発案があったからかもしれない。時間は前後するが、ドニは1902年夏にブルターニュのシャトーランに滞在していたセガンをマキシム・モーフラとともに訪れ、ポン=タヴェンの歴史を取材していた(注16)。確証はないものの雑誌への協力を惜しまなかったドニが、パリを離れていたセガンに代わって、自画像の図版掲載に関してヴォラールとの交渉にあたった可能性は十分にある。そして、その過程で作品購入を決意したという仮説を導くことはあながち間違いではないだろう。この時点でドニはおそらく、作品を蒐集した上で自分の裁量でいつでも利用できるようにしておくことの利点に気付いたはずである。本物の作品を所有するコレクターだけに許される特権があることを悟ったとき、ドニはフランス近代美術の蒐集に関心を向けるようになり、それぞれの比重は当然異なるものの、画家と美術批評家とコレクターが三位一体となった活動を展開していったと考えられるのである。
元のページ ../index.html#317