― 308 ―る。(中略)一人の装飾家が生きた時代に私たちはいる。それはかつてオーリエが壁画を作るように声高に求めた人物である!ル・プルデュで宿屋の部屋や瓢箪型の陶器や木靴を装飾した人物、不安や病気や困窮にもめげずにタヒチでぼろ家の装飾に心を砕いた人物なのである。」(注17)ここではゴーガン芸術を繙くための導入として蒐集作品が引き合いに出され、論旨に説得力を持たせるための工夫が施されている。自身のコレクションを語るドニの振舞いは慎ましやかであるが、緻密な計算の上に成り立っていると言えよう。そして実に奇妙なことであるが、この論考の初出から実に30年もの後に、ドニは同じ磔刑像を背景に配した《自画像》〔図7〕を描いているのである。よく見るとドニの手には絵筆ではなく鉛筆が握られ、机の上には便箋の大きさの紙が置かれている。こうした点からゴーガンの影響が顕著に認められる本作は、生涯にわたって衰えることのなかった敬意の表れであると同時に、ドニの生涯を集約する象徴的な作品であると考えられよう。つまり、これは自らが蒐集したゴーガン作品に着想を得ながら文筆家としての姿を描いた自画像であり、その意味において画家、美術批評家、コレクターというドニの多面的な活動を如実に示した作品と解釈できるのである。一方で《白いテーブルクロス(グロアネクの宿)》と《グロアネクの祭り》に関しては、展覧会の出品履歴を調べてみると興味深い事実が浮かんでくる。つまり、ドニの手元に置かれていた2点の静物画はほとんどの場合、同時に展覧会に出品されていたのである。具体的には1923年のパリのドリュ画廊、1928年のバーゼル市立博物館、同年のベルリンのタンハウザー画廊、さらに1934年にガゼット・デ・ボザールのギャラリーで開催された「ゴーガンと友人たち」展への出品を確認することができる(注18 )。1923年のドリュ画廊のカタログを見ると、本来はブルターニュ滞在の最初期に描かれたはずの《白いテーブルクロス(グロアネクの宿)》は印象主義時代に分類され、《説教のあとの幻影(天使とヤコブの闘い)》(1888年、エジンバラ、スコットランド国立美術館)の直前に制作された《グロアネクの祭り》との様式的差異が強調されている。1934年の「ゴーガンとその友人たち」展のカタログに連番で記載されているのも、同様の意図の表れと言ってよい。もっともカタログ番号と実際の展示が対応していた保証はないが、静物画という同じジャンルの2つの作品は、総合主義が確立される前後の典型的作例として対作品のような形で出品されていたことが窺えるのである。そこにはおそらく所蔵者であるドニの意向も反映されており、1905年の購入の時点で、ゴーガン芸術の劇的な変化を端的に示す作例であることを見抜いていたと思われる。審美眼や趣味の問題を脇に置い
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