する「マイエスタス・ドミニ」やマリアと洗礼者ヨハネがキリストに人類の救済を嘆願する「デイシス」等、終末論的な主題がアプシスに配される。〔表2〕においてアギオソリティッサ型が首位を占めるのは、これがデイシスの一翼を担うからである。そして、他の地域の同時代作例とは対照的に、カッパドキアのプロテシスは聖母子像を表す傾向にある(〔図1〕および〔表3〕参照)。それゆえ、カッパドキアのアプシス装飾は長らく例外視され、受肉を表象するはずのアプシスに終末論的な主題を配するのはなぜかという問題が議論されてきた。これに対し、ジョリヴェ=レヴィや辻氏は、聖母子像を第一の公現、マイエスタス・ドミ現の場」と再解釈し(注6)、カニやデイシスを第二の再ッパドキアという修道院的な環境では「神への観想」への直接的な要請から後者の主題が選ばれたと説明する(注7)。では、カッパドキアにおいて「プロテシス=聖母子像」と定型化されたのはいかなる事情によるのか。単純に聖母子像は聖堂で最も神聖視されるアプシスを修道士の好みにより「再臨」の主題に譲らされたと言えるのだろうか。カバシラスの註釈を繙くならば、そこにより積極的な動機が認められよう。カバシラスは奉献礼儀において準備されたパンについて次のように説く。 切り取られたパンはプロテシスにある限りただのパンにすぎない。しかし、既に新たな性格を帯びている。パンは神に捧げられて供物になったのである。それは主が地上で暮らした最初の時期、すなわちご自身が供物となられた時を表す。かねてから言われるように、この出来事は主の誕生に際して起こり、この方は律法に従って初穂として捧げられたのである(注8)。カバシラスによれば、プロテシスで執行される儀式はキリストの神殿奉献、そして広義にはキリストの幼児期を表す。聖母子像は直接的に神の受肉とキリストの幼児期を想起させるため、他のどの図像にもましてプロテシスで執り行われる儀式の意義を伝えることができよう。さらに、他の地域の作例と異なり、プロテシスに聖母子像を置くことで再臨と公現のいずれも欠くことなく表すことができる。「アプシス=終末論的主題」と「プロテシス=聖母子像」という定型表現は、カッパドキアのような修道院的環境でこそ錬磨されうる、極めて精緻なプログラムと言えよう。■■■■■臨として「アプシス=顕― 317 ―■■■■■■■■■■■■■■■
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