― 319 ―母子像が過半を占める。先に見たように、カッパドキアの修道院的な環境は装飾プログラムに儀式の象徴性を幾重にも重ねてその意義を十全に視覚化することを求めてきた。ならば、もっぱら受肉を記念するために用いられてきた旧来の聖母子像は、大聖入の象徴する受難をも表しうると解されていたのだろうか。答えは恐らく否である。それゆえに、エレウサ型をはじめ、母子の慈愛を強調した「慈愛の聖母」と呼ばれる一連の聖母子群がカッパドキアに導入されたのだろう〔図2〕。「慈愛の聖母」とはエレウサ型と感情表現を伴うオディギトリア型を指し、〔表3〕ではトカル、チャルクル、カラバシュのエレウサ型、エルマルとカランルクのオディギトリア型がこれに属する。これらはイコノクラスム以後に普及した新しいイコノグラフィであり、その成立の経緯は次のように考えられている(注11)。イコノクラスムでは人像表現の根拠たるキリストの人性が争点になった。聖像支持派が人性擁護のために受難とマリアを前面に打ち出した結果、受難で露わになるマリアの悲嘆はキリストが地上に生を受けたことを確証するとされ、受難を描く説教や説話図像、とりわけ哀悼図〔図3〕においてマリアは我が子の死を嘆ずる母性的な女性として造形されるようになった。こうした流れにおいて、「慈愛の聖母」に特有の感情表現は受肉における喜びのみならず受難における悲しみも示唆する護教的モティーフと解釈されて帝国各地に普及した。トカル新聖堂のエレウサ型は、上記の諸作例にとどまらずイコノクラスム以後の作例としても現存最古である。トカル新聖堂の年代は950年代、首都コンスタンティノポリスとの交流が活発化した「移行期」(10C中葉〜後半)にあたり、コンスタンティノスとレオン父子が首都から招いたニキフォロスなる画家に描かせたことが知られる(注12)。本作例は「主の顕現」を表すプロテシスと「磔刑」を配するアプシスの間にあるニッチに描かれており、大聖入に際してエレウサ型の受肉と受難の含意により両者を象徴的に結ぶ役割を果たすことは、申請時に添付した論文で既に指摘した〔図4〕(注13)。トカルはギョレメを統括するラヴラの役割を果たしていたから(注14)、画家に指図する口やかましい修道士には事欠かなかっただろう。トカルのエレウサ型は、大聖入の象徴性を余さず表現しようとするカッパドキア的な要請と首都で流行し始めた最新の聖母子像に敏感に反応した例と言えよう。チャルクル等、トカル以外の慈愛の聖母はいずれも洗練された首都の様式で描かれた11Cの作例であり、首都との関わりが深いギョレメ地区とソアンル地区にのみ見いだされる。これらの作例が描かれた11Cは、奇しくもコンスタンティノポリスの有名
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