鹿島美術研究 年報第27号別冊(2010)
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― 326 ―はよく分かっていない。『法隆寺伽藍縁起■流記資財帳』には講堂が載らず(注4)、食堂と兼用であったとされるが(注5)、講堂と食堂は一方しか確認できない寺院がしばしば見られ、こうした例は少なくなかったと考えられている(注6)。堀裕氏によれば、七世紀には中央においても講経を十分に行うだけの学僧が育成されておらず、中央から派遣された国師による諸国での臨時講会など、「法会の体系」が形成・整備されたのは、八世紀以降であるという(注7)。学僧の数が限られていた時代、講堂の必要性が限定的なものであった可能性はあるだろう。ただし、「法会の体系」の整備とともに講堂の重要性も高まったかというと、必ずしもそうではない。むしろ、貞観寺・仁和寺・醍醐寺など、平安初期に創建された真言宗の大寺院に関して、中心建築に礼堂が設けられると同時に、講堂が建立されなくなることが、藤井恵介氏によって指摘されている(注8)。藤井氏はここから、様々な法会の開催という講堂の機能が、礼堂に移されたことを推定しているが、講堂以外の堂宇での講経法会は、東大寺羂索堂における法華会など、かなり早くから行われている。講堂独自の機能が分かりにくい原因の一つはここにあるが、そもそも講堂は、特定の法会に特化した形態を持っておらず、その機能の特徴は多様な儀礼・法会を行うことの出来る融通性にあったとも考えられる。⑵講堂への仏像安置講堂の機能の曖昧さと関連して、講堂への仏像安置がいつから行われたのかも詳らかでない。発掘調査によって明らかになった柱間間数や背面扉位置から、初期の講堂には仏像が安置されなかったことが推定されているが(注9)、そこから仏像安置へ至る変化の理由も明らかではない。講堂に「本尊」として仏像が安置されることを自明とする研究もしばしば見られるが、別稿で指摘した通り、こうした「堂宇本尊」の概念は平安時代以降のものであり、一般化するのは鎌倉時代以降とみられる(注10)。そのため、『七大寺日記』や『七大寺巡礼私記』など、後世の史料をもとに奈良時代以前の講堂に安置された仏像について考察することには、慎重にならざるを得ない。それらは史料成立時の状況を伝えるものではあっても、そこに記されている講堂安置仏が、寺院及び講堂の創建期にまで遡る保証は、何処にもないからである。これをふまえた上で、史料からほぼ確実に、講堂に安置されたと分かる仏像が登場するのは、八世紀半ばのことである。管見の限りでは、天平十八年(746)の奈良・興福寺講堂不空羂索観音菩■像が、造立年代の明らかな最も古い例だと思われる(注11)。『令集解』僧尼令修営条中の「仏殿」には、「古記云、仏殿、謂塔、金堂、法堂

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