3.興福寺講堂の安置仏―不空羂索観音像と阿弥陀如来像⑴不空羂索観音菩■像 宝字記云。安置仏者。不空羂索観自在一軀〔高一丈六尺。法務御房。後移南円堂― 327 ―之類、是也。食堂、歩廊等類者非也」との注が付されており(注12)、「古記」の成立した天平十年(738)頃(注13)には、講堂(法堂)への仏像安置は、ある程度一般化していたものと考えられる。そのため、興福寺の例が、講堂に安置された仏像の初例とは考えにくいが、造立の経緯が判明するので、考察の対象としては都合が良い。以下、この興福寺の例を中心に、講堂に安置された仏像の具体的な様相を探っていきたい。興福寺講堂に安置された不空羂索観音像の造立の経緯を伝えるのは、『興福寺流記』所収「山階流記」講堂条の次の記述である(引用史料中、〔 〕は割書を示す。以下同じ)。云々。可尋之〕。「山階流記」は天平宝字年間(757−765)成立の資財帳と見られる「宝字記」を引いて、同像が、天平十八年、従二位藤原夫人と正四位下藤原朝臣が亡き父母のために造立したものであること、それが「宝字記」成立時に講堂に安置されていたことを伝える。この「藤原朝臣」は藤原八束(のち真楯に改名)を指し、その父母とは藤原房前と牟漏女王である。この像は弘仁四年(813)に南円堂に移座された後、治承の兵火により焼失。現在、南円堂には、康慶によって文治五年(1189)に造られた再興像〔図1〕が安置されている(注15)。報告者は、先に本像について考察し、藤原夫人が主体となって、父母の浄国への往生を願うと同時に、自身の到彼岸を願った造像であったと推定。その南円堂移座については、これを祖父房前の為に父八束が行った造像と見た藤原内麻呂が、父の作善の顕賞と父の追善を目的として発願した可能性を指摘した(注16)。しかし、前稿では、当初、同像が講堂に安置された理由については触れることが出来なかった。藤原夫人と藤原八束の二人は、何故不空羂索観音像を講堂に安置したのだろうか。 右。従二位藤原夫人。参議正四位下民部■藤原朝臣。以天平十八年歳次〔丙戌〕正月。為先考先妣所造立也〔云々〕。〔延暦記云。不空羂索■一軀。在室殿云々〕。(注14)
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