鹿島美術研究 年報第27号別冊(2010)
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4.変化観音と講堂話を不空羂索観音像に戻そう。同像も故人の為に造られた仏像であり、阿弥陀如来像と同様、像の前で周忌斎会が行われた可能性はある。しかし、ここでは、他の寺院― 328 ―  弘仁記云。阿弥陀丈六一軀。脇侍■二軀〔各在光座。并金色也〕。彩色四天王像⑵阿弥陀三尊及び四天王像この問題を考える前に、延暦十年(791)に造立され、同じ講堂に安置された阿弥陀如来像について考えたい。同像については、先ほどと同じ『興福寺流記』所収「山階流記」講堂条に次のような記述がある。四柱〔在光座〕。  彩色天井一蓋〔宝冠三蓋。各著 形〕。四王帖座■四前〔各敷昔端曩茵。裏小商市〕。木如意一柄。 雑経八百卅六巻〔八十三帙〕。 已上。延暦十年三月十日。藤原皇后宮。円忌御斎会。奉造奉写并旧蹤。弘仁年間(810−824)に成立したと考えられる「弘仁記」によれば、講堂に安置されていた阿弥陀三尊及び四天王像は、延暦十年、「藤原皇后宮」、すなわち、桓武天皇の皇后で、前年の閏三月十日に崩じた藤原乙牟漏(注17)の周忌御斎会のために造立されたものである。これらの像が講堂に安置された理由は、像の前で行われたと考えられる儀礼、皇后のための周忌斎会との関係から、比較的容易に説明できる。斎会とは僧尼に食事を供養し、経典の読誦・講説を行わしめる儀礼である。乙牟漏の周忌斎会においても、衆僧が集められ、「雑経」(阿弥陀関連経典を含むか)が読誦・講説されるとともに、食事が供されたものと考えられる。宮中で正月に行われた最勝王経斎会、所謂「御斎会」では、衆僧だけではなく、盧舎那仏及び脇侍菩■像・聖僧・四天王に対しても食事が供養されたことが知られ(注18)、乙牟漏の周忌斎会でも、阿弥陀三尊及び四天王像に食事が供養されたことはほぼ間違いない。興味深いのは、宮中の御斎会に関して、それが行われる大極殿が、『延喜式』大蔵省において「講堂」と称されていることである(注19)。これは当時、経典の講説が行われる場所こそが「講堂」であると理解されていたことを示すものだろう。ここから、阿弥陀三尊及び四天王像が講堂に安置された理由は、周忌斎会における経典の講説を、それに最も相応しい堂宇、講堂で行うためだったと考えることが出来る。

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