鹿島美術研究 年報第27号別冊(2010)
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― 329 ―の事例によって、別の観点からその講堂安置の理由を考えたい。実は、八世紀半ばに尊像の安置されたことが確実な講堂には、興福寺講堂の他に、東大寺講堂と観世音寺講堂がある。注目すべきは、両講堂に興福寺と同じ変化観音の像が安置されていたことである。東大寺講堂については、『東大寺要録』諸院章講堂条に記載があり、天平勝宝七歳(755)十一月二十一日に「天朝御願」、すなわち、孝謙天皇の御願によって「■千手菩■一軀」、すなわち、乾漆造の千手観音像が「始作」されたことが知られている(注20)。東大寺講堂は、正倉院文書から、天平勝宝五年正月に用材を甲賀で伐り出していること、同七歳にはいまだ構作中であったことが知られ(注21)、千手観音像は完成直後の講堂に安置されたものと考えられている。その願意については、天平勝宝七歳十月二十一日、勅により、聖武太上天皇の病気平癒を願う大赦と賑恤が行われていることから(注22)、同じく太上天皇の病気平癒を祈願するものであった可能性が指摘されている(注23)。一方の観世音寺講堂は、延喜五年(905)十月の『筑前国観世音寺資財帳』に記載があり、この時、講堂に「観世音菩■像」が安置されていたことが知られる(注24)。その造立年次は明らかではないが、同像に当たると思われる奈良時代の塑像心木〔図3〕及び塑像残片〔図4〕が現存することなどから、『元亨釈書』が「観世音寺成」と伝える天平十八年(746)(注25)には、講堂に安置されていたものと考えられている。また、承久三年(1221)に倒壊した同像の再興像として、先の塑像心木及び残片を納めて貞応元年(1222)に造像された不空羂索観音菩■像〔図2〕が同寺講堂に伝来することから、当初の「観世音菩■像」も不空羂索観音であったとされる(注26)。これら変化観音が、いずれも講堂に安置されたのは何故だろうか。興福寺講堂の不空羂索観音像を論じた前稿では、『不空羂索神呪心経』に彫塑像の造立が説かれないことから、その造像について、造像行為自体を善業とする、従来通りの作善の一つとみる見方を強調した。しかし、強力な陀羅尼への期待があったことも間違いないだろう。『不空羂索神呪心経』や『千手千眼観世音菩■広大円満無礙大悲心陀羅尼経』が説くのは、陀羅尼の利益であり、陀羅尼は唱えることで初めてその力を発揮する。実際にどのように行われたかは不明だが、経典もしくはそこに説かれる陀羅尼の、像を前にした読誦が想定されていたことは間違いない(注27)。その場合、問題になるのは像との距離である。当時、金堂に安置された仏像は、堂外から拝するのが一般的だったと思われるが、講堂はその性格上、堂内に入ることが前提となる。像と同じ空間の中で、像と直接対

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