6.おわりに古代寺院の講堂における仏像安置の様相を考察することで、本研究が明らかにしたかったのは、仏像を造立し、それを安置することの意味である。本報告で取り上げた― 331 ―興福寺には、中・東・西の三つの金堂が建立されたが、不空羂索観音像が造られた時点で、これら金堂には何れもすでに安置仏が存在した。そして、不空羂索観音像の造立以後は、東金堂の東方に位置したとされる東院に、おそらくは新たに堂宇を建立して、仏像が安置されている。そのため、金堂・講堂・東院の諸堂宇の順で、整然と安置仏が造立されているように見える。しかし、天平十八年の時点で、三つの金堂に、これ以上、仏像が置けなかったわけではない。東野治之氏が指摘するように、飛鳥時代の金堂には複数の尊像が同居し、厳格な構想はなかったと見られるのに対し、興福寺では群像によって浄土が具体的に表現されるようになる(注29)。つまり、複数の仏像によって一つの世界が表現されるようになったわけで、こうした変化が、群像に含まれない仏像の安置を忌避する傾向をもたらした可能性は否定できない。しかし、そうした傾向は絶対的なものではなかった。「山階流記」所引の「延暦記」や「弘仁記」の記述によれば、三つの金堂のいずれにも、八世紀後半以降、安置仏が追加されている。東院西堂や東院東堂にも新たな安置仏が確認できる。興福寺の三金堂においても、堂宇全体を支配するような「厳格な構想」はなかったのである。したがって、不空羂索観音像の造像時、東院に新たな堂宇を建立してそこに安置することはもちろん、いずれかの金堂に安置することも可能だったはずである。にもかかわらず、同像が講堂に安置されたのは、そこに積極的な意味があったからだろう。それが、前節で指摘した通り、像と直接対峙して経典や陀羅尼を読誦できる場を求めるが故であった可能性は高い。延暦十年に造立された阿弥陀三尊及び四天王像も同様である。これら斎会のために造られた仏像群が必要としたのも、おそらくは講経のための堂宇、多様な法会の場としての講堂だったのである。弘仁四年、不空羂索観音像は南円堂に移座される。九世紀、「法会の体系」の整備に伴い、法会と関わる仏像の数は増し、「法会の場」は講堂以外の堂宇に拡散する。そうした変化を受けて、南円堂は、像にとって講堂以上に望ましい堂宇として供養され、新たな「法会の場」となったものと思われる。しかし、その具体的様相は、また別に考察する必要があるだろう。
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