鹿島美術研究 年報第27号別冊(2010)
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― 332 ―不空羂索観音像と阿弥陀三尊及び四天王像にとって、講堂は、それぞれの造立時に、その像にとって最も望ましいと考えられた安置場所だった。多様な法会の場として機能するが故に、積極的に講堂が選ばれたのである。東大寺講堂の千手観音像についても同様に考えることが出来るだろう。同像は、講堂の造営とほぼ同時期に造像されたが、それは講堂への安置を目的に造立されたからではおそらくない。像は孝謙天皇の御願によって造られ、その安置に相応しい場所として、同時期に造営されていた東大寺講堂が選ばれたのではないだろうか。堂宇が仏像を必要としたのではなく、仏像が堂宇を必要としたのである。おそらく、多くの仏像にとって、その安置場所は「先天的」に決まっているものではなく、様々な要因、すなわち、時間的・経済的制約、堂宇の荘厳や立地、堂内で占有できる空間の広さ、そして何より、像が必要とする儀礼との関係によって、決定されるものだったのではないだろうか。そこで、あらためて確認しておきたいのは、金堂の機能である。例えば、興福寺に金堂が複数建立されたのは何故だろうか。この問題については、興福寺が藤原氏の権力の象徴であったためとの説がある(注30)。しかし、奈良時代の興福寺はいまだ藤原氏の「氏寺」と呼べる段階にはなく、不比等一族が個別に親近者の追善供養を行う「家寺」であったことが指摘されている(注31)。「山階流記」を見ると、各堂宇に安置された仏像には、様々な願いが込められている。前稿でも指摘した通り、そもそも仏像を造るのは、願いを叶えるためである。しかし、造られた仏像は、しかるべき場所に置かれねばならない。とすれば、複数の金堂は、数多くの仏像を安置できる、という意味で価値があったのではないだろうか。それは、数多くの仏像を造ることで、数多くの願いを叶えることが出来ることを意味するからである。まず堂宇があり、そこに「本尊」が必要だったから仏像を造るのではない。彼らの目的は、寺院の完成ではないのである。寺院や仏像は願いを叶えるために作られる。そして、願いを託された仏像は、その時、その像にとって最も望ましいと考えられた場所に安置される。本研究が問題にしたのは、その選択肢の一つに、ある時期、講堂が加わることであった。講堂は「法会の場」というその性格によって、特定の仏像の安置場所に選ばれるようになったものと考えられる。その具体的様相について、本報告で明らかに出来たのはわずかな部分に過ぎない。堂宇と仏像との関係については、今後も研究を重ねていく必要があるだろう。

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