注⑴藤田経世編『校刊美術史料』寺院篇上、中央公論美術出版、1972年、21−28・32−63頁。⑵伊東史朗「聖僧像に関する考察―観心寺像を中心に―」『国華』1018、国華社、1978年、奥健夫「東寺伝聖僧文殊像をめぐって」『美術史』134、美術史学会、1993年、藤井恵介「醍醐寺における布■と仏堂―平安初期の仏堂の変革をめぐって―」(佐藤道子編『中世寺院と法会』法蔵館、1994年)、吉川真司「古代寺院の食堂」(栄原永遠男ほか編『律令国家史論集』塙書房、2010年)など。― 333 ―⑶上原真人「仏教」(『岩波講座日本考古学』4、岩波書店、1986年)。⑷『大日本古文書』2、613頁。⑸宮本長二郎「飛鳥・奈良時代寺院の主要堂塔」(『日本古寺美術全集』2、集英社、1979年)、⑹藤井恵介前掲注⑵論文、153・177頁。⑺堀裕「智の政治史的考察―奈良平安前期の国家・寺院・学僧―」『南都仏教』80、東大寺図書館、⑻藤井恵介前掲注⑵論文、146頁。⑼宮本長二郎前掲注⑸論文、奈良文化財研究所編『大和山田寺跡』本文編、奈良文化財研究所、⑽拙稿「興福寺講堂不空羂索観音菩■像の造立と南円堂移座―先考先妣の為の造像と像のその後―」(研究代表者長岡龍作、科学研究費補助金研究成果報告書『「奉為の造像」研究』、2010年)、36−37頁。⑾なお、一般に山田寺講堂には当初より仏像が安置されたと考えられており、興福寺に現存する銅造の仏頭がこれに当たると言われる。その造立年代は天武十四年(685)とされるので、これを認めれば、興福寺よりはるかに早い例となる。しかし、根本史料である『上宮聖徳法王帝説』裏書からは講堂への安置を確認出来ず、本研究を通じて、報告者は通説に強い疑問を持つに至った。研究成果としては本報告に含めるべき内容だが、紙幅の関係もあり、結論も「古代の講堂に安置された仏像」との題目にそぐわないものとなるため、別稿に譲ることとした。⑿『新訂増補国史大系』、234頁。⒀井上光貞「日本律令の成立とその注釈書」(『律令』〈『日本思想大系』3〉岩波書店、1976年)、⒁谷本啓「『興福寺流記』の基礎的研究」所収「校訂『興福寺流記』」『鳳翔学叢』3、平等院、⒂鈴木喜博「不空羂索観音菩■像(南円堂安置)」(「不空羂索観音菩■像、四天王像、法相六祖像(興福寺)」のうち)(『日本彫刻史基礎資料集成』鎌倉時代造像銘記篇1、中央公論美術出版、2003年)。⒃前掲注⑽拙稿。⒄『続日本紀』延暦九年閏三月丙子(十日)条(『新訂増補国史大系』、544頁)。⒅吉田一彦「御斎会の研究」『延喜式研究』8、1993年(『日本古代社会と仏教』吉川弘文館、⒆『新訂増補国史大系』、727頁。吉川真司「大極殿儀式と時期区分論」『国立歴史民俗博物館研究報告』134、国立歴史民俗博物館、2007年、19頁。⒇筒井英俊編・校訂『東大寺要録』国書刊行会、1971年(初版1944年)、100頁。104頁。2001年。2002年、476−477頁。780−781頁。2007年。以下、『興福寺流記』からの引用等は、同論文に拠る。1995年再録)。
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