― 337 ―㉛ 12・13世紀の日本における如意輪観音像の展開研 究 者:早稲田大学大学院 文学研究科 博士後期課程 清 水 紀 枝はじめに日本や中国における如意輪観音像は、観心寺本尊のような、如意宝珠と輪宝を持つ六臂の姿が通例である〔図1〕。「如意輪」の名は、意のままに願いを叶えてくれる「如意宝珠」と煩悩を破砕し法を広める「輪宝」を意味するもので、如意輪観音はこれらの持物の力をそなえたほとけであると考えられてきた(注1)。ところが如意宝珠や輪宝をもたない二臂像のなかにも如意輪観音と称されるものがある。中宮寺本尊は、左足を踏み下げて右手の指先を頬に近づける、いわゆる半跏思惟像であるが、寺伝によれば如意輪観音であるという〔図2〕。さらに法隆寺の聖霊院や広隆寺の桂宮院に伝わる半跏思惟像もまた、如意輪観音とよばれている〔図3・図4〕。しかし、半跏思惟像を如意輪観音であると説く経典は伝わらず、日本以外では確実な作例を見出すことができない。いずれも聖徳太子ゆかりの半跏思惟像であり、従来、12世紀以降の文献史料にみえる、太子と如意輪観音を同体とみなす信仰に基づくものと説明されてきた。しかるにそのような特殊な信仰が生み出された背景や、各作例が如意輪観音と称された具体的な経緯といった根本的な問題については、これまで十分な考察がなされてこなかったのである。本稿ではさらに一歩踏み込んで、半跏思惟形の如意輪観音像のあらわれた12世紀後半が、後白河院政期にあたることに注目した。その結果、前稿で提示した半跏思惟形の如意輪観音像をめぐる人的ネットワークが、後白河院と密接な関係にあったことが明らかとなったのである。後白河院はとりわけ観音信仰の篤かったことで知られるが、如意輪観音信仰との関わりを示す史料も散見される。また院はしばしば醍醐寺僧に命じて、如意宝珠を用いた修法を行わせているが、如意宝珠は如意輪観音を象徴する重要な持物であり、これが醍醐寺の如意輪観音信仰に基づく修法であったことが想12世紀に至ってにわかに太子と如意輪観音が結びつけられ、太子ゆかりの半跏思惟像が如意輪観音とよばれるようになったとすれば、その背後には、何らかの意図のもとにこれを積極的に推し進めた人々の存在が想定できる。そこで前稿において関係する文献史料を精査した結果、これらの像がいずれも12世紀後半から13世紀後半にかけて、真言宗・醍醐寺の僧を中心とする人的ネットワークによって如意輪観音と称されたことが判明した(注2)。真言宗の二大流派のひとつ、小野流の拠点として名高い醍醐寺は、開創以来、如意輪観音を本尊として特別に重んじてきた寺院である。
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