鹿島美術研究 年報第27号別冊(2010)
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1.半跏思惟形の如意輪観音像をめぐる人的ネットワークと後白河院聖徳太子ゆかりの半跏思惟像と如意輪観音の結びつきを考察するにあたって、前稿では特に、密教図像集『別尊雑記』の巻第18「如意輪」に収録される、四天王寺金堂本尊の記事に注目した〔図5〕。右の掌を頬に近づけ左足を踏み下げた像の横に「四天王寺救世観音像」と記され、そのすぐ下に「聖如意輪云々、仍私加之」との注記が見える。すなわちこの像は「救世観音」とよばれる一方で「如意輪」とも称されるため、編者である心覚が「私に」、つまり個人的に如意輪観音の巻に加えたものと解されてきた(注3)。― 338 ―定できる。加えて太子ゆかりの半跏思惟像が如意輪観音と称された寺院に、院が積極的に関与していたことも判明した。なおこの時期、院は平氏や寺社勢力との対立によって常に危機的状況にさらされていたが、太子信仰および如意輪観音信仰に共通して、王権の守護に関わる功徳が期待されていたことが注目される。以下これらについて詳述し、半跏思惟形という日本独自の如意輪観音像が生み出された背景に、後白河院が関わっていた可能性について論じたい。四天王寺は、聖徳太子が四天王に物部氏討伐の戦勝を祈願したことにより創建されたと伝えられる。金堂本尊は現存しないが、11世紀初めに発見された縁起資財帳(通称『御手印縁起』)に「救世観音像」としてみえ、太子を思慕する百済の国王が造像したものと記される。『御手印縁起』に「救世観音」の名で記された四天王寺金堂本尊(以下、四天王寺像)が、『別尊雑記』では「如意輪」巻に収録され、「如意輪」と注記された。重要なのは、『別尊雑記』以前の史料には、太子と如意輪観音を結びつける、あるいは半跏思惟像を如意輪観音と称する記事がまったく見当たらないことである。『別尊雑記』は原本に承安2年(1172)の年紀が見え、東寺金剛蔵所蔵の写本に応保2年(1162)と記されることから、この頃を中心に編纂が進められたと考えられている(注4)。また当時すでに成立していた図像集、特に12世紀前半の『図像抄』をもとに編纂されたことが明らかとなっているが、『図像抄』の如意輪の項には四天王寺像が収録されていない。すなわちこの像が如意輪と称されるようになったのは、『別尊雑記』が成立した12世紀後半頃であったと考えられる。前稿ではさらに、「私加之」という注記にも留意した。編者心覚が四天王寺像を「私に」如意輪の項に加えたのだとすれば、この像はまさに心覚の周辺で如意輪観音と称されはじめたものと想定できる。また阿部泰郎氏により、彼の付法の弟子にあたる守

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