2.後白河院と如意輪観音信仰― 339 ―覚もまた『別尊雑記』の編纂に関わったことが指摘されている(注5)。これらのことから半跏思惟形の如意輪観音像の成立には心覚や守覚が関わっており、太子ゆかりの半跏思惟像がもっとも早く「如意輪」と称された四天王寺という場が、何らかの重要な役割を果たしたことが推測された。そこで12世紀後半の四天王寺に目を向けたところ、長寛2年(1164)、10世紀以来天台僧によって独占されていた別当に、守覚の師である真言僧覚性が補任されたことが判明したのである。加えてこの時期、同じく太子の建立と伝える広隆寺においても、「泣き弥勒」と通称される半跏思惟像〔図6〕がやはり如意輪観音とよばれていた。泣き弥勒は7世紀後半の作とされ、9世紀の『広隆寺資財交替実録帳』には「弥勒菩薩」と記されるが、永万元年(1165)の供養願文では「如意輪」と称されている。永万元年の広隆寺別当は真言宗・仁和寺の僧寛敏であるが、当時の仁和寺門跡は覚性であった。つまり12世紀後半、四天王寺と広隆寺は共に覚性の影響下にあり、四天王寺像を最も早く「如意輪」と称する『別尊雑記』を編纂したのは、覚性の弟子の守覚らであった。さらに彼らがいずれも、如意輪観音を本尊として重んじる醍醐寺の法流と密接に関わっていたことが明らかとなり、半跏思惟形の如意輪観音像が醍醐寺の如意輪観音信仰を淵源として成立したことが想定された。すなわち覚性、心覚、守覚ら、醍醐寺に関わる真言僧を中心とする人的ネットワークによって、太子ゆかりの半跏思惟像が如意輪観音と称されたとの結論に至ったのである。その背景として、当時、天台宗が四天王寺を拠点とする太子信仰によって隆盛をきわめていたことに注目し、四天王寺への進出および太子信仰の取り込みをはかった真言僧が、その一手段として、本尊「救世観音」像をあえて「如意輪観音」という新たな名でよびかえ、太子と如意輪観音を結びつけるという独自の信仰を生み出した可能性を指摘した。以上が前稿の概要であるが、『別尊雑記』が編纂された12世紀後半は、後白河院政期にあたる。ここで注目したいのは、前稿で提示した半跏思惟形の如意輪観音像に関わる人的ネットワークと後白河院の関係である。覚性は院の実弟であり、守覚は院の子息にあたる。さらに寛敏は院の近臣、藤原通憲の子息であることが判明した。いずれも後白河院と密接な関係にあった人物であり、すなわち半跏思惟形の如意輪観音像が生み出された背景に、後白河院の関与を想定できるのではないだろうか。後白河院は数多くの造寺造仏に関わり、頻繁に寺社を参詣し、また自ら出家して法
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