鹿島美術研究 年報第27号別冊(2010)
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3.後白河院の如意宝珠信仰後白河院と如意輪観音信仰の関わりを考えるにあたって、院の如意宝珠(以下、宝― 340 ―皇となるなど、熱心な仏教信者として知られる。院の事跡のうち特に注目したいのは、書写山円教寺の参詣にまつわる記録である。承安4年(1174)、後白河院は円教寺に参詣し、如意輪堂の秘仏本尊の開扉を行ったという(注6)。また院は保元3年(1158)から建久3年(1192)にかけて頻繁に熊野を参詣しているが、藤原宗忠は『中右記』に天仁2年(1109)に熊野を詣でた際、那智山熊野権現の礼殿の堂が「如意輪験所」となっていたことを記している。さらに5代の天皇の護持僧をつとめた覚忠の巡礼記によれば、那智山の三十三所札所一番霊場としての本尊は如意輪観音像であるという。覚忠が後白河院出家の際の戒師をつとめるほど院に近い僧であったことをふまえると、院の熊野参詣もまた如意輪観音信仰と関わるものであった可能性が高い。後白河院の観音信仰については従来、蓮華王院千体千手観音堂の造営などの事績によって、千手観音への信仰のみがクローズアップされてきたが、如意輪観音信仰についてもさらに詳しく追究してゆく必要がある。珠)信仰もまた注目を要する。近年、歴史学や文学の分野において、院政期の王権と宝珠信仰との関わりが注目されてきた(注7)。四天王寺所蔵『如意宝珠御修法日記』には、承暦4年(1080)から嘉元3年(1305)にいたる宝珠を用いた修法(以下、宝珠法)の実修例が記録されている。宝珠法は醍醐寺僧範俊によって創始され、以後、醍醐寺から発展した醍醐三流および小野三流において頻繁に実修された。ここで重要なのは、宝珠が如意輪観音の重要な持物であり、如意輪観音の三昧耶形ともなっている点である。宝珠法には宝珠そのものを本尊とするものもあるが、醍醐寺僧勝覚が創始した如意輪宝珠法は如意輪観音を本尊とする。こうした事実をふまえ、内藤栄氏は院政期に端を発する宝珠信仰が醍醐寺の如意輪観音信仰と密接な関係にあったことを論じている(注8)。後白河院と宝珠信仰の関わりもまた、醍醐寺僧を介したものであった。院は源義経の謀反に際し、醍醐寺僧勝賢に命じて宝珠法を修させたという(注9)。前述の『如意宝珠御修法日記』にも、後白河院政期に勝賢が宝珠法を頻繁に実修したことが記録されている。勝賢は後白河院の近臣、藤原通憲の子息であり、母は院の乳母をつとめ、院とは生まれながらに密接な関係にあった。醍醐寺座主を3度も務め、院の近臣僧と

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