鹿島美術研究 年報第27号別冊(2010)
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4.後白河院と醍醐寺後白河院は承安3年(1173)に醍醐寺を訪れているが(注12)、後白河院と醍醐寺― 341 ―して活躍したことで知られる。すなわち勝賢という醍醐寺僧を介した後白河院の宝珠信仰もまた、醍醐寺の如意輪観音信仰を淵源としていたのではないだろうか。ここであらためて後白河院政期前後の『如意宝珠御修法日記』の記録に目を向けると、勝賢のほかには覚性、守覚の2名による宝珠法の実修例が記録されている。すでに述べたように覚性は後白河院の実弟、守覚は子息であるが、彼らがいずれも前稿で提示した半跏思惟形の如意輪観音像をめぐるネットワークに関わる人物であることに留意したい。さらに注目すべきは、勝賢が覚性および守覚、そして『別尊雑記』の編者心覚と密接な関係にあったことである。勝賢は初度の醍醐寺座主就任の折、寺内の争いによってわずか2年ほどで醍醐寺を追われ、応保2年から承安年間(1171〜1174)まで高野山に滞在している。近年、土谷恵氏の研究により、高野山における前半期には心覚と、後半期には守覚との修学を目的とした活発な交流が行われたことが判明した(注10)。また横内裕人氏により、治承・寿永の乱の際、守覚と勝賢が協力して後白河院政を護持したことが明らかにされている(注11)。なお覚性が守覚に伝法灌頂を授けた際、勝賢が誦経導師を勤めるなど、覚性と勝賢の交流も窺える。つまり勝賢もまた、半跏思惟形の如意輪観音像をめぐるネットワークに密接に関わっていたことになる。すなわち後白河院が勝賢、覚性、心覚、守覚ら醍醐寺の法流を受けた真言僧を通じて醍醐寺の如意輪観音信仰に触れ、ひいては半跏思惟形の如意輪観音像の成立に関わったことが想定できる。の関わりを考える上で特に注目したいのが、山科殿の存在である(注13)。醍醐寺は京都市の最東部、山科に位置するが、醍醐寺の法流を継ぐ仁海が付近に醍醐寺小野流の拠点となる小野曼荼羅寺を創建して以後、同じく山科にある安祥寺や勧修寺もまた小野流の寺院として発展を遂げてゆく。このような地に後白河院が山荘的性格をもつ別業として営んだのが山科殿であった。『兵範記』仁安2年(1167)7月20日条には、後白河が新造の山科殿に行幸したとの記事がみえ、以後、安元元年(1175)から薨去直前の建久2年(1191)まで頻繁にここを訪れている。注目したいのは、これが『別尊雑記』の成立期、つまり半跏思惟形の如意輪観音像が生み出された時期とほぼ重なる点である。すなわち後白河院がこの時期、山科の地において醍醐寺僧および醍醐寺の如意輪観音信仰と深い関わりを

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