5.後白河院と四天王寺また12世紀後半、後白河院は四天王寺にも足繁く参詣を重ねていた。嘉応元年を端緒とし、以後建久2年に至る頻繁な行幸が記録されている(注14)。さらに院は安元3年、御所内に四天王寺念仏堂を模した堂を建立した(注15)。つづいて文治3年(1187)に四天王寺内に五智光院を造営し、同年四天王寺において伝法灌頂を受けている(注16)。文治5年には四天王寺に百日参籠し、この間の朝政は寺内で行ったという(注17)。すなわち四天王寺金堂本尊が如意輪観音と称され始めた時期、後白河院による四天王寺への積極的な関与がみとめられるのである。― 342 ―もったことが、半跏思惟形の如意輪観音像の成立に結びついたと考えることもできる。なお前述のとおり、長寛2年に覚性が四天王寺別当に補任されているが、以後12世紀後半期の別当職に、院の子息の円恵および定恵が名を連ねたことも注目される(注18)。また永万元年に泣き弥勒が如意輪観音と称された広隆寺についても、勝賢の兄弟にあたる寛敏が保元3年より別当をつとめて後、院のそばに仕えた真言僧禎喜、後白河院の子息である真禎が後につづいている(注19)。すなわち12世紀後半以降の四天王寺および広隆寺には、後白河院の関係者が次々に別当として入寺していたことになる。これらのことから12世紀後半、後白河院が四天王寺金堂本尊および泣き弥勒とも深い関わりをもったことが推測できる。すなわち四天王寺や広隆寺において太子ゆかりの半跏思惟像が如意輪観音と称された背景には、後白河院および院の身近な真言僧たちが密接に関与していたのではないだろうか。むすび後白河院は「年中行事絵巻」をはじめとする絵巻物のパトロンとしても名高く、従来、その「文化創造にみる高度な政治性」が指摘されてきた(注20)。すなわち既存の仏像の尊名変更という「文化創造」についても、院が何らかの意図のもとに関与したことが想定できる。また後白河院政期は、仏事や新造の堂宇の本尊として、あえて霊験性の高い古仏を求める事例が顕在化したことで知られる(注21)。四天王寺金堂本尊と泣き弥勒はいずれも古仏であり、この時期にこれら太子ゆかりの半跏思惟像があらためて注目され、新たな意味づけがなされたことは、古仏使用の問題と相通ずるものと考える。
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