― 343 ― 一院〔傍注 後白川院〕御祈勤修此法之時、中臺畫観音。是別意楽也。其故院聖徳太子後身也云夢想聞之。仍憶念太子與守屋合戦之往。今乱世御祈故如之畫之云々。それでは後白河院があえて太子ゆかりの半跏思惟像に注目し、これを如意輪観音と称することに関わったとすれば、そこにはいかなる意図があったのであろうか。天台側の史料ではあるが、13世紀の『阿娑縛抄』第138の四天王法の項に、注目すべき記事がみえる。後白河院のために四天王法を修した際、画面の中心に観音を描いたという。これは院が聖徳太子の生まれ変わりであるとの夢告によるもので、物部守屋との合戦のころに思いをはせ、乱世の時代の御祈としてこのような本尊を描いたのだとする。重要なのは、この記事において後白河院と聖徳太子、観音が結びつけられている点である。すなわち太子と如意輪観音が結びつけられたことに、院が何らかの形で関与したことを示唆する史料とみることもできるのではないか。この記事について松岡久美子氏は、平安時代末期から聖徳太子に関わる言説に物部氏討伐譚が目立つことに注目し、その背景に治承3年(1179)の平氏による政変の影響を想定している(注22)。平安時代後期、王権は仏法に、仏法は正統な王権に支えられて繁栄するという考えのもと、後白河院の王権と権門寺院が強く結びついていたが、後白河院政を否定する平氏によってその提携が分断された。すなわち「王法に背く逆臣」である平氏に対し、「仏法を庇護する為政者」としての後白河は、まさに物部氏を討ち仏教保護政策をとった為政者としての聖徳太子のあり方と重なるという。保元・平治の乱をはじめ、平氏による幽閉、院政の停止、さらには治承・寿永の乱の勃発など、後白河院政期は常に王権の危機にさらされていた。四天王寺金堂本尊および泣き弥勒が如意輪観音と称されたのが、保元・平治の乱(1156年・1159年)から間もない時期であったことに留意したい。なお12世紀の『覚禅抄』には如意輪観音の功徳として、「若有悪敵軍陣闘諍、皆得勝利」が挙げられている(注23)。やや時代は下るが13世紀、鎌倉政権のために度々如意輪法が修されており、これらが兵乱消除のために行われた可能性も指摘されている(注24)。寿永の乱の際、醍醐寺僧に宝珠法を行わせた後白河院もまた「勝利」を願い、如意輪観音に自らの王権の守護を託したのではないか。さらに後白河院は寺社勢力、とりわけ天台宗・延暦寺との対立にも悩まされてい
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