― 348 ―㉜ 唐招提寺金堂諸像の機能と構成に関する研究研 究 者:東北大学大学院 文学研究科 博士課程後期 塚 本 麻衣子はじめに唐招提寺は、鑑真が天平宝字3年(759)8月に故新田部親王の旧宅を賜り、戒院としたことに始まり、金堂中央には盧舎那仏坐像、向かって右に薬師如来立像、左に千手観音立像が安置されている〔図1〕。その造営年代や三尊の構成の意味が問題とされてきたが、平成21年(2009)には金堂解体修理が終了し、また、近年は戒律に関わる儀礼と仏像との関係が論じられ、新知見が提示されている。本報告ではそれらの成果をふまえ、唐招提寺という戒律実践の場における仏像、及び金堂という空間自体の役割と儀礼との関係を検討し、三尊構成の意味について試論を提示したい。Ⅰ研究史と問題点『招提寺建立縁起』金堂条によると、盧舎那仏像は義静が敬造し、金堂とその他の諸像は如宝が有縁の檀主を率いて造営したとある(注1)。また、それぞれ様式・技法も異なり、三尊の制作時期には幅があるとされる。現在、盧舎那仏像の造立は天平宝字年間(757〜764)と見られており(注2)、薬師如来像については、左掌から発見された「隆平永宝」の鋳造年から延暦15年(796)が上限とされている。金堂については、年輪年代測定によって地垂木の伐採年が天応元年(781)と確定し、完成はそれ以後であることが判明した。また、創建時の平面計画が明らかとなり、当初から三尊を安置する計画で建立されたと見られている(注3)。造営経緯としては、盧舎那仏像が先行して存在し、その後、薬師如来像・千手観音像を加えて金堂の三尊とする計画がなされ、如宝主導のもと延暦年間(782〜805)に完成したと考えられる。現金堂以前の盧舎那仏像に関して、梵網菩■戒の戒師として造立された可能性が、真田尊光氏によって指摘されている(注4)。安置場所等については異論もあるが、東大寺大仏殿前でと同様に、盧舎那仏像の前で受戒が行われていた蓋然性は高い。後に三尊とされたことについて経典上の典拠はなく、三戒壇(東大寺・下野薬師寺・筑紫観世音寺)を象徴するという説(注5)が有力視されている。東野治之氏は、授戒権を限定する三戒壇を表すという構想は、光仁朝以降の仏教粛正政策に同調した如宝によるとし、さらに『東征伝』の「持戒の力を以て、国家を保護す」(注6)という理念は、戒律研鑚の場から国家的な寺院へと変容していった如宝期に相応しいと述べ、寺院としての性格の変化を指摘している(注7)。確かに、唐招提寺は金堂完成
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