― 349 ―を機に国家的・公的な場になっていったことが認められる。如宝は延暦23年(804)に講律の奏上を行っており(注8)、真田氏はその費用から国家的規模の法会が想定されるとし、また、この頃から十五大寺としての活動が確認され、鎮護国家において唐招提寺の「持戒の力」が重視されたのではないかと述べている(注9)。それ故にこそ、菩■戒と関わる盧舎那仏像の機能が重視・継承されたと考えられ、盧舎那仏像及びその荘厳については、持戒の実践との関連を見る必要がある。また、そこに二像が加えられたことに関しても、護国的儀礼、及び中心となる盧舎那仏像の機能とどう関連づけられていたのかという点が問題であると考える。Ⅱ盧舎那仏像の機能⑴梵網菩■戒の受戒と仏像盧舎那仏像については、前述のように梵網菩■戒との関連が重視される。『梵網経』は『華厳経』の教説を継承し、さとりに至るための戒として十重四十八軽戒を説く経典である。盧舎那仏が蓮華台に坐し、その周りの千花に千の釈■が出現し、千花には百億の国があり、一国に一人の釈■がいるという蓮華蔵世界が示され、千百億の釈■は盧舎那仏の化身であると説かれる。釈■は盧舎那仏のもとに参集・聴聞し、それぞれの世界に還って盧舎那仏所説の戒を説く。この娑婆世界の釈■もその一人である、という結構をとる。『梵網経』は受戒法として自誓受と従他受を説くが、従他受においても十戒を犯していた場合には仏菩■像前で懺悔を行い、三世千仏を見る・仏から摩頂を受ける・光や花を見るなどの「好相」を得なければならないとされ(注10)、仏像が必要とされている。その具体的な作法は、中国天台の『菩■戒義疏』や日本の『門葉記』所収の「戒本」に記されている。まず、盧舎那仏から釈■・弥勒へという相伝が示され、次に仏前で受戒すること、十不善業の懺悔においては「仏像前発露懺悔」することが説かれている(注11)。真田氏は上記の内容や、東大寺大仏殿前での受戒の例から、その仏像として盧舎那仏像が想定されてもよいと指摘したのである。しかし、鑑真周辺にとって受戒における仏像とはどのような存在だったのか、という点は未だ明らかではない。そこで、まず鑑真らが依用したと考えられる道宣の仏像観、及び中国における盧舎那仏像に対する実践を検討し、戒律受持における仏像への期待、特に盧舎那仏像の役割について考察を行う。
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