― 350 ―⑵道宣の仏像観受戒法・仏像に関して鑑真自身の著述は残存しないが、鑑真の祖師・道宣には『四分律刪繁補闕行事鈔』(以下『行事鈔』)、『関中創立戒壇図経』(以下『戒壇図経』)、『中天竺舎衛国祗■寺図経』(以下『祗■寺図経』)など多くある。『東征伝』によると、鑑真は在唐中に『行事鈔』を講義すること70回とあり、また『行事鈔』『戒壇図経』を日本に請来している(注12)。鑑真周辺の仏像観の手掛かりになると思われるため、以下、道宣の著述に依って、受戒における仏像の役割について見ていきたい。まず、戒壇の形状・受戒作法を記す『戒壇図経』には、釈■在世時は諸仏菩■を勧請して受戒を行っていたが、仏滅後は仏像を仏在世時に擬えるとある(注13)。この記述から東野氏は、受戒とは本来釈■に誓うものであり、東大寺戒壇院ではその代わりとして舎利・仏像が置かれたとしている(注14)。『戒壇図経』の記述は梵網菩■戒に関するものではないが、仏像前の受戒には同様の考え方が根底にあったと言えよう。しかし、道宣においては、単に儀礼として擬えるという以上の意味が仏像に付されていたと思われる。『行事鈔』「僧像致敬篇」からは、道宣の仏像観が窺える(注15)。まず「仏像経教は住持(教えを留め保つこと)の霊儀」であるから、真実の仏と同じように敬うべきことが述べられる。また、仏像の造立縁起について、釈■如来がこの世に現れたのは、経像を伝えて未来の衆生を救うためでもあり、後世の仏像の規範とするために、目犍連が匠工を率いて天に上り、釈■の姿を写したとする。釈■が天より下りてきた時、この像が迎えると、釈■は像に「汝、来世に於いて広く仏事を作すべし」と命じ、また像を見る者・供養する者をさとりへ至らせるよう述べたという。そして、これを模した像が、現在中国に伝えられて霊異を発していると記す。敬心をもって模すことによって像は霊異を発し、仏が形を垂れ迹を示すという。道宣にとって仏像は「釈■に後世の衆生を救うよう委嘱されて仏事を作す」存在であり、それ故に霊異を発する存在であったと考えられる。道宣晩年の『祗■寺図経』は、隋・霊裕の『寺誥』『聖迹記』(現存せず)を援用して、釈■在世時の祗園精舎について記したものである。天人との感通によって著したとし、菩■や天による造像を説くことから、現実の状況を考察する資料とはならないとされ、これまで重視されてこなかったように思われる。しかし、事実か否かが問題なのではなく、道宣が理想とした仏像とはどのようなものであったかということが重要であろう。様々な堂宇の中でも、金堂との関連から特に「大仏殿」に注目する(注16)。「大仏
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