― 352 ―小南海中窟〔図2〕は北斉の天保元年(550)に造営開始、同6年に僧稠によって整備され、僧稠没後に弟子によって経文が刊刻されたことが、窟外の題記からわかる。僧稠は『続高僧伝』によると、各地の山林で修行した禅観の実修者であり、また、文宣帝の帰依を受け、帝に菩■戒を授けたことでも知られる(注17)。窟内は非常に狭く、禅観用の個室と考えられており、北・東・西の三壁の如来像は、それぞれ釈■または盧舎那仏・弥勒如来・阿弥陀如来に比定されている〔図3〕。稲本泰生氏は窟内外に刻まれた偈文等の解釈から、本窟が懺悔滅罪の思想と深く結びつくことを明らかにし、仏前で三宝への帰依を表白し、諸仏を讃歎し、懺悔を行って観想に入り、その浄土を見るという観仏三昧が行われていたと推定している(注18)。その上で注目されるのは、窟外の「華厳経偈讃」に「盧舎那仏恵無碍、諸吉祥中最無上。彼仏曾来入此室、是故此地最吉祥」という文言が記され、釈■/盧舎那仏像の脇に、香炉を持って仏を供養する僧稠自身の姿が表されていることである〔図4、5〕。盧舎那仏が曾てこの室に来入したとあることから、供養図は僧稠自信が盧舎那仏にまみえ、供養を行ったことを表しているともとれる。この窟で懺悔・禅観する者は、僧稠を目標とし、盧舎那仏の応現を期待していたのだろう。宝山寺大住聖窟〔図6、7〕は小南海中窟から5kmほどの距離にあり、同様に三面に三仏を配している。題記より、隋の開皇9年(589)に開削され、三仏は盧舎那仏・弥勒如来・阿弥陀如来であることがわかり、また『続高僧伝』の記述から霊裕が造営主とされる。稲本氏は窟外にある懺悔文が後の三階教の礼拝行儀文『七階仏名』と一致することから、この窟で実際に仏前での仏名唱礼・懺悔が行われていたとする(注19)。霊裕は『続高僧伝』によると、厳格な戒律の実践者で貴顕に菩■戒を授けたとされ、華厳・戒律等に関する著述が多くあり、また『寺誥』『聖迹記』の著者であることが知られる(注20)。大住聖窟における懺悔と持戒との結び付きが想定され、またその実践によって蓮華蔵世界を見ることが願われていた可能性もあるだろう。盧舎那仏像については、主に龍門石窟奉先寺洞像や東大寺大仏について、蓮華蔵世界の中心としての普遍的な性格、仏教による理想的な国家統治を象徴するモニュメントとしての意義が指摘されてきた。しかし、上記のように僧侶の実践に即した面があり、盧舎那仏像に対する禅観・懺悔を通して蓮華蔵世界を見、盧舎那仏にまみえることが目指されていたと推測される。
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