鎧直垂:上下二部式で細袖の鎧直垂形式で統一されている。源義家(1039−1106)などは鎧を纏っていない時の水干姿と武装時の鎧直垂とが区別して描かれている。4−3 時代意識本絵巻の大鎧統一モデルは、概ね鎌倉時代の形式を示す要素が多くみられた。これだけを鑑みても史実より新しい時代を示しているが、ほかにも時代の破たんが幾つかみられた。一つは胴や兜の吹返部分等に用いられる絵韋に、時代の異なる2種類の文様がみられる点である。先出の伴次郎助兼着用大鎧〔図2〕と中巻10紙の清原家衡(生年不詳−1087)着用大鎧〔図6〕をみると、図2の絵韋は平安時代後期から鎌倉時代中期頃までの甲冑によくみられる霰である。霰襷文は有職文様より発展した文様で、この鎧が先述した「薄金」と称される源家重代の鎧であると考えるならば、時代は史実に整合しているといえる。そして本絵巻に描かれた殆どの大鎧絵韋はこうした霰襷文であった。しかし図6の家衡をはじめ義家やその家臣の絵韋には鎌倉時代後期以降南北朝時代初期にかけて用いられた倶梨伽羅龍文が描かれているのである。これはまだ史実の時代には出現していない。つまり古様の霰襷文絵韋と、当代の倶梨伽羅龍文絵韋が同一画面上にあり、時代が整合しないのである。次に上巻13紙にも袖や草摺の端部分を数色で構成した大鎧の例がみられ、茶(1YR4.5/4)、白(10YR9/1)、緋(7.5R4.5/11)の褄取威が描かれている〔図7〕(注16)。褄取威は鎌倉時代後期頃より出現し南北朝時代から室町時代初めにかけて盛んに用いられものである。褄取威は札が縮小し枚数が増量されることで、数色を繊細に威線で並べる威表現が可能となったもので、史実の時代の大鎧では札が大きく褄取威はまだみられない(注17)。本絵巻が序文にある1347年に制作されたことが、褄取威の醸成と重なり現実味が増すのである。玄慧は義家の威徳をたたえ、後世に伝えるために本絵巻を制作したと序文にも書いている。つまり史実の時代に近づけようと時代意識があったために、わざと大鎧統一モデルを設定したとも推察される。このとき、例えば兜と胴と大袖とが必ずしも皆具ではなく、制作年代もバラバラな実物モデルが存在し、それぞれを写生等して資料としたとは考えられないか。もしくは皆具と思われていた実在モデルが存在したのではないか(注18)。また宮次男氏が、本絵巻は承安元年(1171)の静賢法印本を参考に、基礎となる構図等を移したのではないかと述べており(注19)、古い絵画史料より甲冑等を抜き出し、ひとつの統一モデルを作りあげた可能性も視野に入れたい。■■文襷― 27 ―■■■■■■■■
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