― 372 ―㉞ 仏師肥後定慶の研究―東京芸術大学蔵毘沙門天像を中心に―研 究 者:鎌倉国宝館 学芸嘱託員 山 口 隆 介現在、東京芸術大学に所蔵される毘沙門天像〔図1〕は、像内に記された墨書銘から、貞応3年(1224)、仏師肥後定慶(以下「定慶」と略称)によって制作されたことが知られている。本像に関しては、近年『日本彫刻史基礎資料集成』(以下『基礎資料集成』と略称)の刊行によって、基礎的なデータが広く知られるようになった(注1)。それ以前は、主として鎌倉時代彫刻の概説書や展覧会カタログのなかで定慶作品の一つとして触れられる程度であったが、頬や下顎の張りを強調した勇ましい表情や、右手を高く構えた威勢のよい姿が、運慶の毘沙門天像(文治2年〔1186〕の静岡・願成就院像〔図3〕及び同5年〔1189〕の神奈川・浄楽寺像)に倣ったものであると指摘されている(注2)。また、嘉禄元年(1225)頃の制作と推定される(注3)、湛慶作の高知・雪蹊寺毘沙門天像〔図2〕ともしばしば比較され、頭部が小さめで腰高なプロポーションと、肢体の的確な把握により自然な姿にまとめられた雪蹊寺像に対し、本像は下半身がやや弱く、いくぶん重たげなところがあるとも評されている。こうした指摘は、いずれも本像の特徴を的確に捉えているように思われるが、一方で像全体の印象の類似や差異が指摘されるにとどまり、詳細な比較検討はなされていない。また、現存作品の制約があるとはいえ、四半世紀以上前の運慶作品との比較を中心として本像が語られてきたことにも、若干の問題を残している。周知のように、運慶が生涯にわたって自らの作風を常に変化させたことを考慮すれば、文治年間(1185〜1189)以降に制作された慶派仏師の毘沙門天像や四天王像、あるいは十二神将像との比較を通して、本像を位置付ける必要があろう。筆者は、定慶作品を中心として鎌倉時代中期彫刻の作風展開を明らかにしようとする立場から、これまで定慶の代表作として高く評価されてきた貞応3年(1224)の京都・大報恩寺六観音像及び、嘉禄2年(1226)の同・鞍馬寺聖観音像について考察を進めてきた(注4)。本稿では東京芸術大学毘沙門天像の装身具及び甲の形式に焦点を当て、同時代の神将像と詳細な比較を行うことで、従来あまりなされなかった神将像の検討から、定慶作品の造形的特色について考察を加えたい。はじめに、『基礎資料集成』の記述に基づき、本像の概要について簡単に触れたい。像高86.8センチ。頭体幹部をヒノキの縦一材から彫成し前後に割矧ぐ構造で、内刳りのうえ割首し、玉眼を嵌入する。左腕は肩と手首で矧ぎ、右腕は肩、鰭袖部を含む前
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