― 374 ―も受け継がれているが、一方で同時期に細部意匠を施した元結飾りが現れることに注目したい。建久年間(1190〜99)または建仁年間(1201〜04)の制作とされる快慶作の和歌山・金剛峯寺四天王像のうち、持国天と増長天は髻が後補のため検討から除外されるが、広目天には菊座飾りの使用が認められる。また、建保2年(1214)に完成した京都・海住山寺五重塔の安置仏との見方が支持されている同寺四天王像のうち増長天〔図7〕には、半截した菊座の周囲に霊芝形の装飾をめぐらせる意匠が採用されており、本像と構成要素を同じくする先例として注目される。このほか、13世紀初頭の興福寺現南円堂四天王像の元結飾りは、各像ごとに変化を持たせるとともに、多様な意匠を用いる点に特色がある。このうち伝増長天〔図8〕のそれは、本像と構成要素を同じくしながらも、より装飾性を増している。このように、本像の元結飾りは主として鎌倉時代初頭の慶派作例中に類似した形を見出すことができる(注8)。元結飾りは、それ自体が非常に小さいことに加え、宝冠の陰に隠れてみえないことも多いためか、これ以降、単純化あるいは定形化していく傾向が見受けられる。本像にみるような細部まで入念に彫刻を施した意匠は、鎌倉時代初頭に現れ、およそ1220年代頃までの間に限定的に流行をみせたものといえるだろう。⑵天冠台本像の天冠台〔図9〕は、紐2条により構成されたシンプルなもので、両耳前辺りから前頭部に向かって上向きに緩やかなカーブを描く点に特色がある。これについては、近年の天冠台形式に関する研究(注9)のなかで詳論されている通り、運慶が文治2年(1186)の願成就院像〔図10〕において用いた形式であり、本像もその形を踏襲している。⑶胸甲胸甲は身に着ける甲のなかで最も視線が集まりやすいためか、その形には多様なバリエーションが存在する。また、時代の流行があらわれやすい部位でもあるようで、各時代に特有の形式があるのも特徴の一つといえる。本像の胸甲〔図11〕は、太い線と細い線からなる2条の覆輪によって縁取られている。覆輪は緩やかな曲線を描きながら左右に下り、途中で入りをつくって、下端中央に花形をあらわしたものである。また、左右中央には木瓜(もっこう)型の輪郭を彫出している。以上のような形状から、本稿では木瓜型二重の胸甲と呼ぶこととする。管見の限り、平安時代後期以前にこの形の胸甲を用いた作品はそれほど多くない。
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