― 375 ―ところが、鎌倉時代に入るとその使用例がにわかに増加する。本像を遡る作品としては、先述の海住山寺四天王像のうち多聞天〔図12〕が挙げられ、覆輪が単純な弧線を描く点に小異はあるものの、木瓜型の内区や下端中央の花形など、細部にまで類似が認められる。また、興福寺現南円堂四天王像のうち伝増長天〔図13〕と多聞天〔図14〕は、本像と比べれば装飾性が強いものの、やはり基本形を同じくしている。このほか、修理銘から建久年間(1190〜99)頃の作と推定されている神奈川・曹源寺十二神将像(注10)では、一具中4軀(子・辰・巳・午)に類似した形を認めることができ、建永2年(1207)頃までに逐次造立されたとみられる興福寺東金堂十二神将像のうち伐折羅大将や、建保5年(1217)奈良・円成寺四天王像のうち多聞天などに、覆輪の概形は異なるものの木瓜型の内区をみることができる(注11)。さらに、本像以降の作品にも目を向けてみると、13世紀半ば前後の制作とされる奈良国立博物館(京都・石清水八幡宮宝塔院伝来)毘沙門天像(注12)や岐阜・長瀧寺四天王像(注13)のうち増長天に類似する形(ただし前者は内区に人面をあらわし、後者は内区を楕円形とする)がみられ、弘安3〜4年(1280〜81)の奈良・東大寺真言院四天王像に至っては、一具中3軀の胸甲に近い形が採用されている。このように、少しずつ形を変えながらも、木瓜型を用いた胸甲が一つの定型とされていった様子のうかがえることを指摘しておきたい。⑷甲締具つづいては甲締具について。その意匠には、胸甲と同様にさまざまなバリエーションが認められるが、ここで特に注目したいのは、胸部中央縦帯上端に付けられた霊芝形の装飾〔図11〕である。この部分に菊座をあしらう作品が広くみられるのに対し、本像のように霊芝形の装飾をめぐらせる作品は多くない。同様の例としては、興福寺現南円堂四天王像のうち伝持国天と伝増長天〔図13〕が挙げられる。また、霊芝形ではないものの、金剛峯寺四天王像のうち多聞天や、湛慶作の雪蹊寺像には花形をめぐらせた装飾〔図15〕をみることができる。なかでも、興福寺現南円堂伝増長天との細部にまで及ぶ類似は、注目されるところである。この形式についても元結飾りと同じく、細部意匠のためか以降の展開において受け継がれた形跡はあまりなく、単に菊座をあらわすものが圧倒的に多い。ただし、そうしたなかにあって、奈良国立博物館(石清水八幡宮宝塔院伝来)毘沙門天像や長瀧寺四天王像のうち持国天〔図16〕、正応2年(1289)の奈良・薬師寺東院堂四天王像のうち持国天や多聞天などには同様の形式が受け継がれており、なかでも長瀧寺像と薬師寺東院堂像が、いわゆる大仏殿様四天王像(注14)であることは、意匠の淵源を示
元のページ ../index.html#385