鹿島美術研究 年報第27号別冊(2010)
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― 376 ―唆しているようで興味深い。⑸帯喰神将像の腹部中央には、獣面をあらわす場合がある。その多くは帯を噛む獅子の頭部だが、本像のそれは少し異なり、両前脚をあらわす点に特色がある〔図17〕。この両前脚をもつ帯喰(以下「有脚帯喰」と略称)を鎌倉時代初頭に成立したとみられる新形式の陵王面との関連で取り上げた村山閑氏は、有脚帯喰をもつ作品を10点ほど挙げ、うち6点が像の形姿や持物によって大仏殿様の作例であることを明らかにされた(注15)。さらに氏は、そのすべてに持国天が含まれていることから、建久7年(1196)に康慶、運慶、快慶、定覚によって再興された東大寺大仏殿四天王像のうち持国天の帯にも、有脚帯喰があらわされていた可能性を想定されている。筆者もこの見解に賛同する立場であるが、ここで本稿に関連して重要なのは、有脚帯喰をもつ作品の多くが四天王を構成しており、本像は独尊で採用する数少ない遺例の一つとみられることである(注16)。これは、有脚帯喰が原則として大仏殿様を中心とした鎌倉時代以降の四天王造像のなかで受け継がれたことを示しているとともに、甲の形式選択における本像の特殊性を物語っているように思われる。ここまで、形式的特徴について検討を加えてきた。その結果、天冠台は文治年間の運慶作品の形を踏襲しているものの、元結飾り・胸甲・甲締具の各形式は、やや遅れた13世紀初頭の慶派仏師の神将像と共通することが確認された。なかでも、海住山寺・興福寺現南円堂の二具の四天王像との間に認められる装身具や甲の形式的類似は注目される。海住山寺像は、一連の大仏殿様四天王像のなかでも金剛峯寺像に次ぐ早期の例であるとともに、小像ながら細部にまで及ぶ入念な彫技から、大仏殿像の姿をある程度忠実に伝えているものと推測される。一方の興福寺現南円堂像は、形制や裙を着けない服制が海住山寺像と相違するものの、甲制において特徴的な細部形式を共有することが指摘されている(注17)。さらには、先述した霊芝形を用いた細部意匠が13世紀後半以降においても依然として一部の大仏殿様四天王像のなかで受け継がれていることや、少しずつ形を変えながらも木瓜型を用いた胸甲が一つの定型とされていったことを考慮すれば、有脚帯喰のみならず、霊芝形の装飾や木瓜型二重の胸甲も、建久7年(1196)に再興された東大寺大仏殿四天王像に備わっていた形が規範となり広がりをみせたものと想定できるだろう(注18)。本像は、そうした最新ともいうべき形式を随所に取り入れている点に一つの特色があるといえよう。そして、独尊でありながら有脚帯喰を採用する形式選択には、定慶

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