― 377 ―の装飾性への志向をうかがうことができる。本像の形式的特徴を明らかにしたところで、最後に湛慶の毘沙門天像との比較を試みたい。いうまでもなく、湛慶は運慶亡き後の造仏界をリードした仏師として重要な位置を占めている。しかしながら、確実な作品に乏しいこともあり、その作風については不明な点が少なくない(注19)。そうした状況にあって毘沙門天は、定慶・湛慶ともに在銘作品の残る数少ない尊像の一つであることから、ともに運慶に学んだ両者の毘沙門天像を比較することにより、本像の特色がより一層明確になるものと思われる。まず、元結飾りにみられる霊芝形の装飾については、先述のように、雪蹊寺像にもほぼ同形のものが採用されている。また、甲締具についても花形とはするものの、やはり類似した装飾が認められる。つづいて天冠台に目を向けてみると、本像が〔紐2条〕であったのに対し、雪蹊寺像は〔紐・無文帯・紐〕という形式を採用している。構成要素は異なるものの、両形式ともに鎌倉時代にしばしばみられることが指摘されている(注20)。両像に共通する両耳前辺りから前頭部に向かって上向きに緩やかなカーブを描く天冠台の形態も、願成就院像以来の伝統を受け継いだものである。胸甲の形式については、本像が木瓜型二重であったのに対し、雪蹊寺像は覆輪が単純な弧線を描き、下端中央に花形をあらわしていない。雪蹊寺像にみられる内区を外区より一段高く彫出する表現は、願成就院像以降、慶派仏師の神将像に多く用いられた手法である(注21)。帯喰については、本像が有脚帯喰を採用していたのに対し、雪蹊寺像には一般的な帯を噛む獅子の頭部があらわされている。こうしてみてくると、両像はともに、願成就院像以降、慶派仏師の神将像で踏襲された形式と、東大寺大仏殿四天王像の再興を契機として13世紀初頭以降広がりをみせはじめたと推測される新形式を基調とし、それらを取捨選択することで全体を構成しているようである。ただし、新形式の採用に対する両者の姿勢は対極的であり、装身具や甲に新形式を積極的に採用し、独尊に用いられることの稀な有脚帯喰を取り入れた定慶に対し、細部意匠の採用にとどめた雪蹊寺像からは、湛慶のより慎重な姿勢がうかがえる。有脚帯喰の採用が端的に示しているように、既存の形式に依拠しながらも、それらを再構成して新たな表現を試みる定慶の作風は、結果的に主流となり得なかった感がある。しかしながら、その作風が以降加速する像表面の複雑化あるいは多様化を促したこともまた確かであろう。一方、雪蹊寺像の形式選択から垣間見えた湛慶のやや保守的ともいうべき作風については、元仁元年(1224)の湛慶周辺の作と推定され、形
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