― 379 ―⑼佐々木あすか「平安時代末期から鎌倉時代中期の天冠台形式について―奈良仏師・慶派仏師作例を中心に―」『MUSEUM』624、2010年2月。⑽上杉孝良「曹源寺木造十二神将像について」『三浦古文化』47、1990年6月。浅見龍介「曹源寺蔵 十二神将像」『国華』1287、2003年1月。なお、曹源寺像の制作年代に関して、筆者は甲の形式や頭髪の表現の検討から、13世紀第1四半世紀の可能性を考えている。山口隆介「鎌倉時代前期の十二神将造像と図像」(藤岡穣編『仏教美術における絵画と彫刻』科学研究費補助金 基盤研究(C)研究成果報告書)2009年3月。⑾なお、本像とまったく同形の胸甲を採用する同時代作品として、静岡・建穂寺観音堂毘沙門天像がある。⑿神奈川県立金沢文庫編『祈りの美―奈良国立博物館の名宝―』特別展図録 2005年4月。⒀奥健夫「長瀧寺蔵四天王立像」『国華』1211、1996年10月。⒁水野敬三郎「新薬師寺四天王像と吉田寺阿弥陀如来像について―美術史的な観点から―」(東京芸術大学美術学部保存修復技術研究室ほか編『特別展覧 甦る仏たち 文化財保存修復技術展』特別展図録)文化財保護振興財団、1991年9月。改題「新薬師寺四天王像について」『日本彫刻史研究』所収、中央公論美術出版、1996年1月。山本勉・和田圭子「新出の大仏殿様四天王像について」『国華』1186、1994年9月。⒂村山閑「陵王面の形式変遷―鎌倉時代新形式の成立を中心に―」『美術史』153、2002年10月。このほかに有脚帯喰が確認できる作例としては、文治5年(1189)の興福寺現中金堂四天王像のうち広目天、13世紀第一四半世紀頃の作と推定されている京都・東福寺仏殿四天王像のうち多聞天(山本勉「東福寺仏殿の四天王像―多聞天を中心に―」『MUSEUM』591、2004年8月)、鎌倉時代中期の制作とみられる永久寺西之院伝来の出光美術館増長天像(山本勉「持国天立像・増長天立像(出光美術館)」〔東京国立博物館編『内山永久寺の歴史と美術―調査研究報告書 内山永久寺置文―』〕東京美術、1994年4月)がある。⒃本像のほかに、前掲注⒂で挙げた東福寺仏殿四天王像のうち多聞天がある。この像について山本氏は、持国天・増長天・広目天との作風の相違などから、元来は独尊であった可能性を指摘されている。⒄藤岡穣「解脱房貞慶と興福寺の鎌倉復興」『学叢』24、2002年5月。⒅このように想定した場合、霊芝形の装飾や木瓜型二重の胸甲が現存最古の大仏殿様四天王像である金剛峯寺像にみられないことが問題となろう。ただし、金剛峯寺像において有脚帯喰の採用された形跡がない(前掲注⒂村山論文)ことなども勘案すれば、快慶によって意図的な改変が加えられている可能性も考えられる。⒆塩澤寛樹「湛慶様式に関する基礎的研究」『鹿島美術研究(年報第13号別冊)』、1996年11月。⒇前掲注⑼佐々木論文。■ 奥健夫「東大寺西大門勅額付属の八天王像について」『南都仏教』81、2002年2月。■ 松岡久美子「湛慶世代の作風展開について―京都正法寺(八角堂)阿弥陀如来坐像、京都西園寺阿弥陀如来坐像を中心に―」『研究紀要』22、京都大学文学部美学美術史研究室、2001年3月。なお、これに関連して、嘉禄元年(1225)頃の湛慶作品と推定される京都・高山寺白光神像の髻に、山形・本山慈恩寺文殊・普賢菩■像のような平安時代後期の垂髻に近い形を採用していることも注意される。
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