鹿島美術研究 年報第27号別冊(2010)
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参考文献梅津次郎監修『角川絵巻物総覧』角川書店,1995前田千寸『日本色彩文化史〔復刻版〕』岩波書店,1984本間源百里輯『尚古鎧色一覧上下』故実叢書,1901― 29 ―⑹上巻8紙詞書に「伴次郎傔杖助兼といふ者あり。きはなき兵也。つねにいくさの先にたつ。将軍、これを感じて薄金といふ鎧をなむきせたりける。」と記されている。⑺顔料の胡粉がわずかに黄味を帯びていることで、威糸の白は染めたり晒したりしていない糸と想定して生成り糸の色相数値を当てはめている。⑻参考として検証した模本においても全てが同色の表現で一致しなかったため、不明としている。⑼宮崎明子『天平の緋―古代日本茜染の再現―』(大塚巧藝社,2001)の再現実験による。論者は2001年9月、奈良県文化会館にてその茜染再現作品を実見している。⑽本論中の大鎧遺品制作年代は東京国立博物館編『日本の甲冑』東京国立博物館,1989、山岸素夫・宮崎眞澄『日本甲冑の基礎知識』雄山閣出版,1990による。⑾山岸素夫『日本甲冑論集』つくばね舎,1991,301頁による。⑿『平家物語』巻第9「敦盛最期」には「ねりぬきに鶴ぬうたる直垂に、萌黄匂の鎧着て」(『新古典文学大系45「平家物語」下』岩波書店,1993,174頁)とあり、類似の色相関係を取り入れていたことが窺えるのである。⒀例えば「蒙古襲来絵巻」上巻文永の役での竹崎季長着用大鎧は、水呑環が袖裏にある古様の形式の韋威大鎧であった。下巻では、水呑環が袖表に付いた鎌倉時代後期以降にみられる新しい形式の大鎧に変わっており、威毛も染料や素材が高価な絹糸茜染の緋糸威大鎧となっていた。(佐藤佳代「武家装束の色彩観―「蒙古襲来絵巻」に描かれた武装表現を中心に―」前掲)⒁現在草摺の形状が確認できる大鎧のうち1領、藤堂家旧蔵黒韋威大鎧の射向草摺のみが切欠式草摺であった。この大鎧は残念ながら関東大震災で焼失したため現存していないが、文化12年(1815)猪飼正彀が調査した現寸実測図が遺されている。(鈴木敬三『甲郷写影古稀の栞 幻想の物の具―その日の行粧―』大塚巧藝社,1984)⒂八幡座と腰巻の星を除く星兜の星数は、平安時代4〜7点、鎌倉時代8〜16点、南北朝・室町時代初期12〜19点である。(山岸素夫・宮崎眞澄『日本甲冑の基礎知識』前掲,92頁)⒃褄取威には法則があり、草摺の褄取箇所には着用者の左右の草摺は前から後へ向かって、また前後の草摺は右側から左に向かって構成される。この例でみると右大袖の前から、そして前草摺の右側から褄取部分が構成されていることが判別できた。このため、確かに褄取威であるといえる。⒄平安時代後期の大鎧である御嶽神社蔵赤糸威大鎧は札の枚数が約1,480枚に対し、南北朝時代の豊原北島神社蔵浅黄糸腰取威大鎧では約2,990枚と倍増している。(山岸素夫・宮崎眞澄『日本甲冑の基礎知識』雄山閣出版,1990,191頁)⒅現在伝わっている大鎧遺品でも、袖と胴が異なる具足であったり、別物の兜があてがわれてあったり、脇盾の威毛が異なる色目であったりする例は多い。寺社への奉納品でさえそうした例がみられ、皆具である方がまれである。さらに実用品として制作・使用する武具であるため、度重なる威替えや補修によって、当初のパーツがかなり入れ替わっていたことも考えられる。⒆宮次男『合戦絵巻』(前掲)52頁による。

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