鹿島美術研究 年報第27号別冊(2010)
395/597

― 385 ―「真山水」が、「景山君」なる人物によって持ち込まれたことを意味すると見られる。続いて、その左側には人名が並んでいるが、各項の下段を見ると小文字で記された人名に、「武清」(喜多武清)・「伊洲」(菊田伊洲)といった当時活躍していた文人たちの名前が見られる(後述)ことから、上段はその人々が作者を推定した結果を「探幽」・「常信」…といったように記しているものと見られる。すると、「探幽」と推定した「武清」と「次郎」ならびに「晴嶽」なる人物の箇所に傍線(朱筆)が引かれているのは、推定結果が実際の作者と一致することを示す記号と見て良いであろう。ここから、これは参加者が作品を持ち込み、各々が作者の推定を行う書画鑑定会の記録であると考えられる。巻一の冒頭の「五月二十日発会」の記録をさらに追っていくと、この時鑑定に供された作品は計20点で、以後概ね1・2ヶ月に1度の間隔で会が開催されている。したがって、前掲の各巻表紙に記された期間は会合の実施時期による区分を示しており、記録は弘化2年から嘉永5年までの7年間にわたっている。本書は以降巻五の末尾まで一貫して同様の体裁に則った記述が続き、収録された会合は62回、作品点数は2522点におよぶ。そして、この会合の記録に常に登場する「催主」という人物こそが、本書の旧蔵者でもある堀直格であろう。それは、藩主としての治績に加えて文人として知られた直格の事跡から考えても相応のものと考えられる。直格は誠斎または花迺家と号し、弘化2年2月に藩主の座を息子の直武に譲って致仕すると、以後亀戸天神橋付近の須坂藩下屋敷に棲遅し、蔵書家・書画収集家として知られた(注2)。直格は特に古学に取り組む中で記録の考証や編纂に力を入れ、その成果を著述として遺している。その代表的な作品としては、本邦の古今の画家の略歴と関連する記事を載せた伝記集である『扶桑名画伝』が挙げられる。本書は、成立後しばらく経った明治32年(1899)に哲学書院より刊行された際には底本を一部欠いていたというが、その状態で全53巻、収録人数およそ1900人に及ぶ大著であった。その成立は嘉永7年(1854)の直格による序と安政6年(1859)の黒川春村の序を持つことから、嘉永7年に直格が脱稿の上で、春村が校閲補訂を行い安政6年に成立したものと見られている(注3)。なお、春村は国学者・狂歌作者としても知られた人物であるが、直格より二人扶持を給せられていたとも言われ、『扶桑名画伝』の序では自らを「墨阪別業文殿預」(「墨阪別業」は須坂藩下屋敷の意と見られる)と称しているなど(注4)、直格の文芸活動に大きく寄与したと言われる。現段階では本書の背景となる鑑定会の開催に言及した記録類は管見に入っていないが、本書が直格の致仕直後の弘化2年5

元のページ  ../index.html#395

このブックを見る