鹿島美術研究 年報第27号別冊(2010)
396/597

2.鑑定会の進行および記録方法先に本書の記録の例を巻一冒頭の記述を挙げて紹介したが、改めて本書の記録方式を一般化すると〔図3〕のようになる。まず、はじめに作品名が挙げられるが、多くの場合、作品名(②)の右傍に①の作品の形態に関する記述(竪物・横物・ヘガシ・床・扇面など)が付記される。そして、その下に作品の作者名(③)が記され、④の欄にその作品を持ち込んだ出品者の名が続く。それに対して出品者以外の参加者が作品を鑑定した結果を記したのが左側の箇所で、⑤の欄に各々が推定した作者名を、そして⑥の欄に推定者の名を記す。― 386 ―月(致仕は同年2月)に始まっていることからも、本書は致仕後の直格が開催した書画鑑定会の記録であると考えられる。なお、本書の筆写者については不明であるが、全体を通して複数の手跡が混在している。ただし、筆致が変化する箇所は概ね会合の区切りと一致することから、恐らくは直格周辺の人物がある程度の単位ごとに分担して筆写していったものと見られる。この記述が鑑定の記録であると推定できる根拠は、江戸後期以降に書画の落款を隠して作品の鑑定を行う会合が開かれていた例に求めることができる。例えば、早い例としては、斎藤月岑『武江年表』中の文化3年(1806)の記事に「十月の頃より、菅原洞斎書画展覧の会を催す。落款を隠し銘々鑑定を小紙に記し、筒にこめて後にひらく。」(注5)という記載が見られる。すなわち、文化3年には江戸の画家菅原洞斎が主催する会合において、落款を隠した書画を前に各々が鑑定を行い、その推定結果を(恐らく紙片などに記して)筒に入れ、後にそれを参加者全員に公開して推定の正否を確認するということが行われていたことがわかる。こうした鑑定会の具体的な様子については、先に鈴木廣之氏がエドワード・モースの回想を例に紹介している。モースは著書『日本その日その日』で、明治16年に陶器の鑑定会に参加した際の様子を記しており、そこでは参加者が車座になって、各自の名前を書いた漆塗の盃を持ち、各人の推察をその内側に記して伏せておく。すると主人役は各人の名前と鑑定結果を帳簿に記入していくという形で会が進行していったという(注6)。『鑑定記』もこれらと同様の会合の記録と見られ、参加者は落款を隠した作品を前に各々鑑定を行い、推定した作者名(⑤)を各自の名(⑥)とともに紙片に書くなどした上で、後にその結果を公表して正誤を確認し合っていたものであろう。ちなみに、作者名⑤の欄には時折「□」および「○」の記号が付されている場合がある。これ

元のページ  ../index.html#396

このブックを見る