鹿島美術研究 年報第27号別冊(2010)
397/597

3.会合参加者の顔ぶれ会の参加者に目を向けると、記録中に一度でも出品もしくは作者推定に記載のある人物は50名が確認される〔表1〕。表に示したように、参加者名は雅号や通称と見られる名称のみを記した簡潔な表記に留まっていることから、現段階においては推測が及ばず不明の人物も多い。― 387 ―は、凡例が存在しないことから推測に留まるものの、前者は「推定不可のため棄権」、後者は「既知の作につき棄権」を示すと見られる。前者については、作品によっては参加者全員が「□」を提示した例も存在し、この場合は全員が作者を推定できなかったと想像される。また、後者の使用例は、参加者が自分自身の制作した作品を鑑定することになった場合などに見受けられる。こうして本書に記録された書画の点数は2522点にのぼり、会合そのものは全62回収録されていることから、一回の会合あたりの出品数は平均しておよそ40点と言える。また、一作品あたりの鑑定に携わった人物の人数を見ていくと、出品者を含めて最少で3名、最多で18名という例が見られる。ただし、一回ごとの会合中でも参加者には多少の増減(途中参加や退出などによるものか)が見られ、概ね少ない場合で7名程度、多い場合で15名程度の参加が見られる。ただ、その中でもまず区分できるのが藩主層かと見られる参加者である。これは、諒(2.「景参加者名に「君」の敬称を伴っており、特定された人物としては溝口直山君」)と竹腰正美(4.「篷月君」)の名前が挙げられる。溝口直諒(寛政11年〜安政5年〈1799〜1858〉)は新発田藩の10代藩主で健斎または景山と号し、竹腰正美(文政4年〜明治17年〈1821〜1884〉)(注7)は尾張藩付家老を代々勤めた竹腰家の第9代で篷月と号した人物で、それぞれ文芸に堪能であったことでも知られる。また、両者は親友として交流していたという(注8)。ただし、本記録で注目されるのは、この会合が大名間の交流の場であるのみならず、より開かれた場であったという点である。表中の「藩主層以外の画家など」の欄を見ると、まず出席回数が56回と催主直格に次いで多い「翠岳」(9)なる人物が目につく。これは須坂藩士にして画家の関翠岳を指すと見られ、幕末期の人名録類で『鑑定記』の成立時期に近いものを参照すると、嘉永3年(1850)刊、畑銀雞編の『江戸文人/芸園一覧』において「画家」の項に「亀戸天神橋 関翠岳」(注9)と掲載されており、「亀戸天神橋」、すなわち直格の隠棲していた須坂藩下屋敷内、もしくは近傍に居住していたことがわかる。■■■■

元のページ  ../index.html#397

このブックを見る