鹿島美術研究 年報第27号別冊(2010)
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4.出品作品の傾向と特徴本会合において鑑定に供された作品の全体的な傾向としては、第一に日本の書画の比率が非常に高いことが挙げられる。すなわち、中国の書画として出品された作品を作者名から挙げると、確認されるのは30点程度で少ない割合に留まっている。ちなみに、その作者として挙げられているのは、趙子昂(宋末・元初)・王若水(元)・唐寅― 388 ―この翠岳に関して、記録を通して注目されるのは、「催主」こと直格の出品に際して多くの場合「○」、すなわち先述の「既知の作につき棄権」を表明しているという点である。つまり、直格が出品する作品の多くは既に確認済みであるということで、ここからは、翠岳が日頃から藩主直格の書画収集に近い場に身を置く人物であった可能性が考えられる。次に、「永海」(10)は画家佐竹永海で、会津出身で江戸の谷文晁に入門し、後に彦根藩井伊家の御用も勤めている人物である。また、同じく文晁門人である江戸の画家喜多武清・武一親子(12・11)も参加者に名を連ねているほか、狩野伊川院門人で仙台藩御用絵師を勤め、谷文晁とも交流があったと言われる菊田伊洲(13)など、当時江戸で文人として活躍していた画家たちもこの会の重要な参加者であったことがわかる。そのほかには、吉原江戸町二丁目の名主にして諸芸に堪能で、古筆や茶器の目利きにも通じていた(注10)西村藐庵(14)の名も見える。また、後述するように会には狩野家関連の作品が多く出品されているが、狩野家の絵師たちも回数は少ないものの姿を見せており、「宗益」(15)は表絵師である神田松永町狩野家当主の狩野宗益、「探原」(16)は奥絵師で鍛冶橋狩野家当主の狩野探原を指すと見られる。また、出席数の多い参加者として古筆家の人々の名が見られる点も興味深い。古筆家は代々幕府のもとで筆跡鑑定を家職としており、特に古筆鑑定における権威的存在でもあった。古筆家は本家と別家の二家が併存していたが、了伴(17)は本家10代当主、了博(19)は後に続く11代当主となる人物で、了仲(18)は古筆別家13代当主として活動した。本書にはこれ以外にも30名近い参加者が名を連ねているが、未だ不明の人物も多いため、参加者の特定については今後の課題としていきたい。ただ、その中にも「名古屋之道具屋桑名屋勘兵衛」なる道具商(36)の名が見えるなど、この鑑定会が大名とその周辺のみに留まらない、広い階層の人々の参加のもと成立していたことは確かであろう。

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