鹿島美術研究 年報第27号別冊(2010)
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― 396 ―こで、本研究では日本近代における朝鮮陶磁受容に焦点をあて、明治末期から昭和初期の古美術評価の全盛期において朝鮮陶磁が日本でどのように受容し評価されたか、また当時の日本近代の陶芸家たちが朝鮮陶磁をどのように受け止め、制作につなげたかを考察し日本近代陶磁史の中に改めて位置づけることを意図した。未だ多くの調査と論考を必要とする研究課題であるが、本稿では資料をしぼって問題提起と考察を行い、今後の課題を示すものとしたい。一、朝鮮陶磁受容の始まり―「高麗焼」人気日本人による朝鮮陶磁の調査研究は、明治33年(1900)より八木奘三郎を始めとし、関野貞(1867〜1935)らを中心として行われた「朝鮮古蹟調査」を端緒とする(注1)。日本統治下の朝鮮の近代工芸、近代陶磁分野の様相については、近年次々に研究論文や韓国内での展覧会等で詳細な記録と新たな考察が示されている(注2)。本章では特に日本人による朝鮮陶磁器受容がどのように進められたかに焦点をあて、その特徴を考察したい。植民地化政策において、その地域の国史編纂事業は測量事業とともに非常に大きな意味を持つ。八木、関野より始められた朝鮮古蹟調査もまた、日本によって朝鮮の王朝史等の重要古文献が整理されるのと同時に近代的な学術調査として進められ、その成果として日本側による「朝鮮美術史」や「朝鮮陶磁史」の著述も行われて行くことになった。大正元年(1912)に刊行された『李王家博物館所蔵品写真帖』(注3)は、明治41年(1908)9月に設置された李王家博物館の所蔵品が写真と解説文によって紹介されたものである。序文には李王家博物館設立の経緯が挙げられているが、当時開城付近において墳墓の破壊と盗掘が横行したため「高麗焼」流出への対応策として博物館の設立が進められ、陶磁器の収集品の中心も高麗時代(912〜1392)の陶磁器であった(注4)。先行研究で高麗青磁に言及した日本及び海外の文献が整理されているが(注5)、『李王家博物館所蔵品写真帖』に記された朝鮮陶磁への言及は、日本側の最初期の公的な朝鮮陶磁観を示すもののひとつと言えるであろう。本書の序文には「高麗陶磁器(通称高麗焼)」と見出しがつき「高麗焼」についての解説が記され、「…此高麗焼の多くは最近二三十年前より悉く古墳より発掘せられたるものにして廣く世に傳はりしものにあらさるなり…」「高麗焼の発掘せられし數は頗る多數にして果して幾許なるやを知るを得さるも蓋し萬を以て數ふへく…」とあり、発掘品の数が当時すでに相当数に上り、「高麗焼」という通称が付くほどに浸透

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