鹿島美術研究 年報第27号別冊(2010)
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― 397 ―していたこと、そしてその市場価値がすでに形成されていたことがうかがえる。また、そこでは『高麗図経』などの文献にも触れつつ、発掘時の状態や出土した器種、そこに見られる表現技法、目跡や釉色の状態から推測される焼成方法が記されており、既に現在の高麗青磁研究の視点と大きくかい離しない方法によって分析がなされている。しかし、このとき高麗青磁の細目として挙げられているのは、「白磁・青磁・絵高麗・三島手・天目釉・鉄砂釉・柿釉・交趾釉・練上け手」であって、朝鮮時代のものや中国大陸の技法のものが高麗時代のものと認識され混在した状態であった。ほかに、これらの器種や技法、器形名称は朝鮮時代のものに則り表記したため、高麗時代の多種多様な製品に適用することが難しいことなどが付記されている。また『李王家博物館写真帖』には、高麗陶磁に対して「古雅にして風韻の高きもの」を特長としつつ「彼等の国民性として事物に無頓着にして精巧を集とせす、寧ろ幼稚にして天真の流露せる素朴古拙の裡…此趣致たるや朝鮮特有のものにして日本及支那製作家の模倣し能はさる点にして…」と著されている。当時盛んに行われていた日本の楽浪遺跡調査の解釈に見られるように、朝鮮の過去の文物を称揚しつつ、その繁栄は過去のものであり現在の文化は停滞しているため、その未発展で稚拙な点を支配国の日本が「近代化」することで発展に力を添えなければならないという植民地支配正当化の論理がすでに作用していることがわかる。また、これらの発掘と収集活動と同時に、1908年以後、民間企業や統監府傘下に編成された李王家宮内府下の「漢城美術品製作所(のちの李王職美術品製作所)」などによって高麗青磁の再現と生産が始められ、新たな殖産興業として推進されるようになった(注6)。このようにして、高麗青磁は統監伊藤博文や総督寺内正毅などをはじめとする日本人官僚らの積極的な保護政策を受け収集活動が行われた。また、日韓併合の年の明治43年(1910)2月に東京で開催された「高麗焼」の展観は、当時の日本側の私的な高麗青磁収集の様相を知ることができる資料と言えるだろう(注7)。ここには、日本の侯爵、子爵や、東京・大阪・京城の名士たちなどが名を連ね各々の所蔵品が写真付きで示されており、中国大陸や朝鮮時代の製品が混在しているにせよ、高麗青磁が日本の上流階級層によって盛んに収集され、非常に人気の高かったことが示されている。このようにして、日本における朝鮮陶磁受容は高麗青磁を端緒として植民地政策の中で急速に収集と評価が進められた。二、朝鮮陶磁受容の広がり―「李朝」陶磁受容韓国併合以後、大正期に入ると日本の大陸進出の中で朝鮮の地へ渡る日本の民間人

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