鹿島美術研究 年報第27号別冊(2010)
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― 398 ―の数も増加していく。朝鮮陶磁研究の先駆者として評価される浅川兄弟が朝鮮に渡るのもこの頃である。兄の伯教は大正2年(1913)に家族をともなって京城に渡り、始めは京城府立南大門公立尋常小学校の訓導として美術の授業に携わっていた。弟の巧もその翌年に兄に続き、朝鮮総督府山林課の技師として働き始める。彼らの活動については柳宗悦との交流を含めこれまでに多くの研究が残されているが(注8)、本論では、前章に挙げた日本人の高麗青磁受容と比較し、彼らが朝鮮において先導し進めた朝鮮時代の陶磁器研究とその評価について取り上げたい。さて、朝鮮陶磁の中でまず評価を受けたのは高麗青磁であったが、朝鮮王朝時代(1392〜1910)に製作された陶磁器については、浅川兄弟が朝鮮に渡った大正初期頃までは、まだ庶民の日常生活の中で見られるものであり全般的に伝統工藝として収集評価されるものではなかった(注9)。このような状況の中で、元々美術工芸への造詣の深かった伯教は、道具屋に出ていた朝鮮白磁の壺に魅入られたことをきっかけとして、巧とともに朝鮮時代の陶磁器の研究に没頭するようになる。またほぼ同時期に、日本における朝鮮時代の陶磁器評価に先鞭を付けた柳宗悦もまた、朝鮮陶磁と意識をせずに朝鮮時代のやきものを購入したというエピソードが残されている。伯教が柳を訪ねたことをきっかけに、柳を中心とする「李朝陶磁」熱が燃え上がりついに「朝鮮民族美術館」の設立を目指すまでになる。ここで高麗青磁受容と再び比較してみると、浅川兄弟の韓国陶磁研究は、関野貞らが朝鮮総督府に委嘱された朝鮮古蹟調査や李王家博物館の公務による調査・収集活動ではなく、一般の愛好家として自費で作品を収集し窯跡を巡ることで始められたものであった。伯教は大正11年(1922)から日本に帰国する昭和21年(1946)までの25年間で朝鮮全土700箇所以上の窯跡を発掘調査したとされており、最初の発表論文は大正11年に『白樺』9月号に発表した「李朝陶器の価値及び変遷について」であった。ここで伯教はこれまで高麗時代のものと考えられていた「三島手」を朝鮮時代の初期のものと明らかにする画期的な発表を行い、また巧も「朝鮮陶磁名考」を著し、朝鮮時代のやきものについてハングル名称とその用途をまとめる重要な研究成果を残している。朝鮮総督府の『朝鮮古蹟図譜』の刊行が1915年以降で、陶磁器の調査記録が1920年発行の第9巻以降であること、また東京帝国大学教授の奥田誠一が「朝鮮の陶磁器に就いて」という初の朝鮮陶磁史概論を『国華』に連続発表するのが1922年以降であることを考えると、その先駆性は明確である。柳宗悦らの人縁を始めとして、彼らは在朝鮮の専門家として名を知られるようになり、朝鮮総督府の関係者や小森忍(1889〜1962)、中尾萬三(1882〜1936)ら中国陶磁研究の専門家、富本憲吉ら民芸運

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