― 399 ―動の作家や川喜田半泥子ら陶芸家の幅広い層に求められ朝鮮陶磁の案内人をつとめていた。また、在朝鮮の一般の朝鮮美術愛好家を中心に「朝鮮工芸会」を開くなど、この頃より朝鮮と日本国内にわたり趣味人の間に白磁や粉青、青花、辰砂や鉄絵といった朝鮮時代の陶磁器に対する評価が広がった。柳とともに朝鮮民族美術館のため収集していたのは主に朝鮮時代のものであったが、彼らは窯跡調査を元に破片収集と文献調査による研究活動を行っていたため、高麗、朝鮮の時代に拘らず調査を行っていた。しかし、浅川巧の日記には「…加藤氏(加藤灌覚)は云つた。民族美術館が三島手の或物を李朝の製品として扱つたのを京城の骨董屋や鑑定家等は憤慨して居る、と。(大正11年10月29日)」(注10)とあるように、朝鮮陶磁の評価は高まりつつも当時の高麗磁器の商業的価値には未だ格段の差があったことが察せられる。また前章に挙げたように、当時開かれた朝鮮工藝の展観では、作品解説の端々に植民地支配を正当化する文化解釈が喧伝されていた。浅川兄弟については、特に伯教の場合は総督府主催の朝鮮美術展覧会で審査委員を務め、総督府後援の朝鮮工芸展覧会に文章を連ねていることから、その価値観から全く自由であったとは言い難い。しかし工芸展覧会に寄せた朝鮮陶磁の解説などからは、日本側の解釈に基づいた文化理解によることなく自らの研究成果を淡々と述べ、また朝鮮文化の理解を呼び掛ける文章にはあくまで研究者として朝鮮陶磁に向き合い、評価しようとする独自の姿勢を見ることができる。このように、高麗時代の陶磁器の評価が動機においても調査収集の過程においても統監府や朝鮮総督府の植民地政策を色濃く反映したのに対し、朝鮮時代の陶磁器いわゆる「李朝」ものに対する評価は、浅川兄弟ら一般の愛好家から広がり、その言説をもとに日本の文化人の中で広がっていったこと、柳宗悦の朝鮮美術工芸保護への熱意が後の民芸運動につながったほか日本の朝鮮統治下政策への反論と結びついていたことは特徴的なことと考えられる。三、日本の近代陶芸家と朝鮮陶磁大正初期に評価が始まり大正末期から昭和初期にかけて受容の広がりを見せた朝鮮陶磁は、急速に日本の美術工芸界に浸透していった。本章では、朝鮮陶磁評価が日本の近代陶芸家にどのような影響を及ぼしたのか、中国陶磁評価と比較しつつその特徴を述べる。日本が中国、朝鮮へ覇権を広げた明治末期から大正初期は、中国陶磁受容の大きな波が訪れた時期であった。それは西洋から訪れた中国陶磁ブームの中、明治44年(1911)の辛亥革命による清朝の終焉によって宮廷や旧家の旧蔵品が海外へ大量に流
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