鹿島美術研究 年報第27号別冊(2010)
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― 400 ―出したこと、また日本においては旧大名家所蔵の名品が売立てに出されるようになり、第一次世界大戦の開戦によって好景気を迎えていた日本の新たな財界人層が積極的に収集し始めたことが理由として挙げられる。これにより、室町時代以降、長く茶の世界の伝統の中でのみ受容されてきた中国陶磁は、受け手の層においても収集品の時代や器種においても大きな広がりを見せ、その頃新たに生れた「観賞陶器」の概念とともに、美術商「山中商会」の飛躍や(注11)横河コレクションなどの大コレクターの登場によって様々な時代と種類を網羅した名品が将来されることとなった。また中国・朝鮮陶磁の研究会として設立された文化人たちの団体は、奥田誠一ら帝国大学の教授らを中心とした「彩壺会」等を始めとして多く形成され、1920年代から30年代にかけては『アトリヱ』や『美術新報』といった同時代の美術媒体にも多く紹介されるようになる。この頃のことについて、柳宗悦より痛烈な作品批判を受け民芸運動に携わる以前の河井■次郎が「…狭かいところに李朝のものを主とした、いやあ驚いたね、どれ見ても大したもんで。…それからおれはもうふらふらになってね、高島屋へ電車に乗って帰るのに行き過ぎちゃったんだよ。それほどおれ興奮した。(注12)」と後に語っているように、朝鮮時代の陶磁器についても多くの作家たちが直接目にし、評価するようになっていた。日本の美術工芸の中で、陶磁器分野に特に特徴的だと言えるのは、近代以前に中国・朝鮮のやきものを規範とした圧倒的な歴史が存在しているということである。濱田庄司は「李朝の陶器では一番形に感心する。唐宋のものの形の美しさは、内から外への張りの素晴しさにあるが、李朝のものには素晴しいといふやうな形容詞はおよそ縁が遠い。寧ろたどたどしい。…さて再び見直して見みると、案外思ひ過ぎていたより下手で、線も点もうぶさにはほほえまさせられる。…(昭和6年(1931)年12月)」(注13)と著しているが、民芸運動の作家たちに限らず、多くの陶芸家たちは朝鮮時代の陶磁器への評価として、ゆがみのある器形や民画的な絵付けに対する「素朴」さや「自然」な魅力を語った。そこには、植民地主義的な価値観としての「素朴」「自然」ばかりでなく、「侘び茶」の伝統の中でつくられた高麗茶碗への美意識が混ざり合い反映していたものと考えられ、近代陶芸独自の視点としてさらに考察を深めることを今後の課題としたい。また、中国陶磁は「古典研究」を目的として釉薬や器形の再現が行われ、多くの製陶家、陶芸家の製作に技術的な影響を与えるものであったが(注14)、朝鮮陶磁については作品鑑賞を元に「自然さ」「大らかさ」を学ぶといった感覚的な影響を伝える文章が多く、川喜田半泥子が朝鮮で製作を行ったように直接的な制作態度に結びつくことは稀であったと言える。ここに近代陶芸家たちがそれまでの陶■■

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