1.「異国」イメージの表象 ―翻訳小説の興隆を背景に―江戸時代に海外の文物が舶来するなかで庶民の嗜好性をいち早く吸収し、新しい風俗に並々ならぬ好奇心を抱いてきた浮世絵師が、西洋の構図や技法を積極的に版画に応用し、また異国の人物像や風俗を描いたことは先行研究で詳らかにされている。横浜絵や開化絵に見るとおり、幕末明治期に異国風俗を描く傾向は顕著になる。芳年は版画だけでなく、「翻訳物の挿絵と云へば殆ど先生以外になく、盛んに西洋式の絵を描かれた」と弟子が言い伝えるように(注3)、明治前期に外国文学が相次いで翻訳される際の挿絵を多く手がけていた。坪内逍遥は「率先して写真を其儘に新風俗を、外国人を描こうと力めたのが永濯、芳年なぞであったのだが、彼等とても明治七八年ごろまでは、まだまだ外国人だけは描き悩んでいた。というのは彼等の筆伝統にない面附だからである、服装だからである」(注4)と述べるが、西洋化を急務とする社会的風潮に伴い、浮世絵師は「筆伝統にない」人物や風俗を描き表すことに如何に対処したのか。ロシアの小説家兼劇作家プーシキンが著した『大尉の娘』の翻訳小説『露国奇聞花心蝶思録』(以下、『花心蝶思録』)を一例として見てみよう。― 415 ―を探ることを試みたい。本稿ではまず明治期における浮世絵師の制作情況の一側面を報告する。『花心蝶思録』(明治16年)は、日本で初めてロシア文学が原文から翻訳された記念碑的作品として有名である。18世紀のエカテリーナⅡ世の時代におきた農民戦争を題材に主人公と恋人との恋愛を描いた歴史小説の大作で、挿絵は全6図である。表紙には作者、訳者と並び「日本大蘇芳年翁圖画」の記載がある。3年後に『露国稗史スミスマリー之伝』と改題、芳年の同じ挿絵で再版された。明治35年に『士官の娘』として原作に近い形で新たに翻訳されたが、明治10年代の時点では社会的・思想的側面は省略され、恋愛模様に主眼点が置かれた。登場人物の性格だけでなく、主人公ピョートル・グリニョーフはジョン・スミスといった具合に名前も変えられている(注5)。当時恣意的に内容を意訳する翻案が横行していたが、異国の文化や風俗、社会的背景に疎い読者層に慣れ親しんだ戯作調の内容や人物像に改変することで西洋のものを日本化して咀嚼・吸収し、理解することは当時頻繁に見られる現象であった。1910年にロシアの雑誌『Нива(Niva)』で芳年の挿絵が次のように紹介されている〔図1〕。「その挿絵は不思議なイラストレーションであった!例えばミロノーフからのグリニョーフの特赦願いを読むエカテリーナ皇女の画、或はおかしな服装のゲラシム僧侶と彼の妻の前で恋人と別れを告げるストライプ模様のスーツを着たグリニョー
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