鹿島美術研究 年報第27号別冊(2010)
427/597

2.東京案内としての明治期浮世絵 ―「皇都会席別品競」と「開化三六会席」を例として―さて、芳年が挿絵界で新風を巻き起こしていた同時代、新政府が西洋化を押し進め― 417 ―るなかで東京の街でも近代都市を標榜して変革が行われていた。明治11年頃に制作された芳年の■物に「皇都会席別品競」がある〔図6〕。題簽には外題と東京の料亭の場所と名が配され、店内或は場所の特性を示す景色を背景に芸妓を描き、画中には名も付される。芳年御得意の遠近法を多用した構図である。同じ頃制作された「開化三十六会席」は役者似顔絵で人気を集めた豊原国周(1835−1900)の■物で、芳年同様に題簽に東京の有名料亭の場所と名称、料亭を背景に名前とともに芸妓が描かれた〔図7〕。これに先立つ明治4年にも同じ趣向をもつものとして芳年「東京料理頗別品」、芳幾も「東京料理十八肴」を出版している。広重の「江戸高名会亭尽」をはじめ、実在の有名料理茶屋を題材にした版画は江戸時代に度々刊行されてきた。向島の大七も料理屋番付には頻繁に登場する著名な料理屋で、これらが一種の名所絵として機能していることがわかる〔図8〕。人口増加に伴い江戸の都市化が進むにつれ、地方からの来訪者には名所として、江戸の人々には遊郭以外の社交場としての役割を果たしていた。なかでも山谷の八百善は武士だけでなく亀田鵬斎や大田南畝、酒井抱一など文人が集った店として名高い。芳年や国周の■物が出版された明治前期、「帝都」として変貌を目指す東京では、福澤諭吉や田口卯吉らが盛んに東京改造論を繰り広げ、明治11年には十五区六郡制が試行された。鉄道等交通の整備を背景に各地から東京へと多種多様な人々が流入する様は参勤交代の比ではなく、イロハ引きで町名と場所とが調べられる飯島有年編『東京市街案内』(明治11年)等の具体的な案内書は江戸時代よりも遥かに重宝されたであろう。服部撫松の『東京新繁昌記』もその頃出版され爆発的な売れ行きをみせた。明治6年の芸妓規則以降公認芸妓が料亭に出入りするようになり、遊郭から料亭への社交場の移行が進む。花街でも江戸の趣を残す柳橋、銀座煉瓦街に近い新橋や講武所が新たな盛り場として頭角を現した。芳年の■物「新柳二十四時」(明治13年)も当時の二大盛り場を背景にしている。東京の街は次第に新旧入り組む様相を見せはじめ、料亭も同様に深川平清などの江戸時代から著名な店と、精養軒に象徴される新時代の店とが競合するようになっていた〔図7〕。料亭を題材にしたこれら相次ぐ■物からは東京の現状がうかがえよう。作品にはすべて芸妓の名前が付されている。画中に遊女や町娘の名を記すことは春信の『絵本青楼美人合』や礒田湖龍斎の「雛形若菜初模様」、歌麿描く難波屋おきた

元のページ  ../index.html#427

このブックを見る