鹿島美術研究 年報第27号別冊(2010)
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3.「江戸」への郷愁 ―市民の代弁者としての浮世絵師―新たな風俗が定着していくなか、「江戸」に強い郷愁を募らせる人々も東京には数多くいた。歌川派の継承者である浮世絵師芳年も彼等の需めに応ずるように制作を行っていた。― 418 ―や高島おひさにみるように、江戸時代の浮世絵版画や版本でよく使われる手法であり、遊女評判記と同様の性格を持っていた。窪俊満の「中州の四季庵の酒宴」など料理茶屋と遊女芸者とを題材にした浮世絵もしばしば出版された。これらのタイプとして、特定の料理茶屋に不特定の美人、不特定の料理茶屋に特定の美人、双方特定できるもの、双方不特定のものに分かれるが、幕末になるにつれて特定できる傾向が強くなることに気づく。美人の大首絵とコマ絵の中に料理屋を描く手法は幕末期に特に見られるが、「皇都会席別品競」や「開化三十六会席」では東京の実在の有名料理屋の風景のなかに実在の芸者を配すことで、具体的な情報をもとによりリアリティをもって受容者が作品を楽しめるようになっていた。「皇都会席別品競 芝山内福住」〔図6〕と明治24年日本初の美人コンテストともいえる浅草凌雲閣「百美人」のため小川一真が撮影した写真を比べると〔図9〕、芸者の立ち位置を逆にしただけで構図に共通点が多いことは■物のピンナップ的な要素を考えると興味深い。明治後期にもなると東京「遊学」案内など現在で言うところのタウン誌の役割をもつ出版が相次ぎ、石川天崖の『東京学』に象徴される都市東京での処世術・生活指南を記した書籍も登場する。明治29年には、講談師の名前と有名店の図と住所、評判の芸者を記載した■物「東京自慢名物絵」が刊行され、広告的要素がより強くなることがわかる。版元と店、芸妓の関係性が出版において如何に働いていたか詳細に検討する必要があるが、浮世絵のもつ広告的要素を考えれば、続々と出版される新都市東京の案内書を先行する例として、シリーズで刊行された「皇都会席別品競」や「開化三十六会席」をみることも可能ではないだろうか。芳年が「泰斗」の名を恣にしていた頃、江戸回顧を象徴する祭典が開かれる。明治22年8月26日、旧暦では徳川家の記念日である八朔の8月1日、上野競馬場で江戸開府三百年祭が旧幕臣によって開催された。その事業とともに発足されたのが「江戸会」で、幹事には栗本鋤雲がいた。鋤雲は文政5年幕府医官の家に生まれ、幕臣として活躍後、政府出仕を頑に断り、忠義を貫き引退。明治以降はジャーナリストとしての生涯を送る。芳年も関わった「郵便報知新聞」で主筆を務めたように、新聞記者には幕臣出身者が多くいた。「朝野新聞」の成島柳北も幕府への忠義から新政府の誘い

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