― 419 ―を断り、記者の道を選んだ一人である。「東京日々新聞」の福地源一郎も幕臣の出身である。明治期に浮世絵師は新聞とのつながりを強くするが、幕臣の出自をもつ記者とその記事を絵画化する画家との関係性も興味深い。江戸会は明治22年より毎月一号ずつ『江戸会誌』を刊行、「江戸会誌は従前の如く徳川執政三百年間の制度、風俗、文学、経済、歴史の実相を記すべし」とあるように記事も江戸時代の様々な事象が取り上げられた。そこで挿絵を手がけていたのが芳年である〔図10〕。柳北や依田学海、鋤雲や三遊亭円朝、仮名垣魯文は当時向島や本郷を拠点に集会を催しており、芳年になじみの深い円朝や魯文がいることから紹介に至ったのか、挿絵で有名であったことから依頼されたのか事情は詳らかではない。しかしこのような事業に芳年が関係していたことは明治期における絵師と周囲の人々とのつながりを検討するうえで、また芳年に旧時代への意識が強くあったという推測を補強するうえで見逃せない事実である。芳年が新政府或は当時の政府に対しどのような感情を抱いていたかは文書等が残されていないため明らかではないが、幕臣を英雄化して描いた作品は多く見つけられる。鳥羽伏見の戦いを描いた作品(明治7年)では敗れた兵士が周囲で倒れるなか、指揮をとる会津藩士の宮崎市五郎の姿が〔図11〕、戊辰戦争の際に旧幕府の艦隊数隻を率いて函館に入り、五稜郭で官軍に抵抗した幕臣榎本武揚も「名誉新談榎本釜次郎武揚」(明治8年)で勇将としてイメージされている。「徳川治績年間紀事徳川慶喜公」(明治10年)では、徳川慶喜が大阪城を脱出する様相が描かれている。敗れ逃げているはずの慶喜はりりしい姿で、あくまでも慶喜の側に立って描かれていることが読み取れる。明治9年の錦絵新聞でも、萩の乱や同じく明治政府に対する反乱である熊本神風連の乱の上野謙吾も英雄化されたイメージで描かれた。人々の新政府に対する不満が徐々に高まるなか、明治10年におきた西南戦争は象徴的である。不平士族の■乱という枠をこえ、西郷隆盛が掲げた「新政厚徳」という新しい政治に対する決起を支持する民衆も数多くいたことは、当時の西郷隆盛の描かれ方や、戦争に際して銃や弾薬、食料等の九百余件の出願が東京市民から寄せられた事実からうかがえる。幕末明治期の浮世絵の特徴として事件や出来事を絵画化し、現在の報道と同じような機能を担っていたことが挙げられる。従来の研究では報道的要素のみが取り上げられ、如何に描かれているのか、何が英雄化されているのかについて殆ど触れられていない。急展開を見せる当時の社会的背景や個々の立場は極めて複雑で入り組んでいるが、だからこそ絵師も単に事件を絵画化するのではなく、背景に作品受容者の傾向、
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