鹿島美術研究 年報第27号別冊(2010)
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注⑴鏑木清方「挿絵の興起」『鏑木清方文集二 明治追懐』、白凰社、1979年、236頁。― 420 ―版元や出版者の意図、絵師個人の意志がうかがえるのか読み解く試みも必要である。安藤優一郎氏は、新聞を武器に政府批判の言論活動を展開した旧幕臣にとり、精神的な拠り所となったのが懐かしき江戸の文化・社会であり、江戸を理想化することで■長土肥の藩閥政治に対する鬱憤をはらし、東京市民にもそれを支持する者が多かったことを指摘した(注9)。淡島寒月は「江戸を奪われたという敵慨心が、江戸ッ子の考えに瞑々の中にあったので、地方人を敵視するような気風もあったようだ。」と回顧するが(注10)、地方から人が押し寄せ、市民の生活も困窮を見せる東京で旧幕臣と同じような心情を抱き、逝きし日々への郷愁を募らせる風潮があったことは想像できる。そして浮世絵師はその声を代弁していたとも言えるのである。さて江戸開府三百年祭は後に新政府への意識からか東京開府三百年祭と改められた。式典の会員には榎本武揚ほか当時の有力者の名前が並ぶ。入場券は一円で参列者には弁当と酒がふるまわれた。催しとして競馬、打球、幌引、花火、海軍の奏楽、梯子乗り、電燈点火、神田明神の大祭が繰り上げで共に行われ、職人・芸妓も総動員のまさに官民一体の式典であった。展覧会も開催され、徳川家康由緒の武器、諸候の拝領物、古書画など五百余点が展示された。祭りは当初三千人の見込みが縦覧人員は二日で一万人を越す大盛況振りであった。開催の背景には第一に江戸時代に対する意識が相当な高まりを見せていたこと、その反面新しい政府も容認できるような環境が明治中頃には形成されていたことがわかる。折しも明治22年は大日本帝国憲法が発布された年である。柳北など旧時代の人間が次々に逝去し、旧幕臣の手でこのような大イベントを開催できた最後の機会であった。おわりに三百年祭開催の3年後の明治25年、芳年は歿した。晩年は重度の神経病を患っていたというが、幕末から明治期の端境期に急速に社会が変貌するなかで活躍した代表的な画家の一人である。近代的表現を模索した浮世絵師にとっても、また人々にとっても、「江戸」は一方で超克すべき対象となり、他方で郷愁を誘うものでもあった。江戸の記憶を濃密に保持した〈浮世絵〉メディアはその間を往還しながら受容され、新たな支持層を形成していたのである。

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